2317日目
寒さが身に染みはじめる師走の初め。黄色く色づいた街路樹は葉を落とし、黒い樹皮を露わにしていた。街行く人々はコートを着込み、白い息を吐きながら友人や家族と笑いあっている。ああ、平和だ。普段血生臭い事件の調査ばかりしているので、こうして人々の平和な日常を垣間見ると心が安らぐ。
私は今、先月起きた女性看護師の殺害事件の捜査に駆り出されていた。結婚式を挙げたばかりで幸せに満たされていただろう彼女は、ハネムーン直後の11月中旬から行方不明になり、数日後発見された時には痛々しい姿となっていた。特に皮膚の裂傷が激しく、検査の結果彼女は無残にも生きているうちに皮膚を剥がされていたということが分かった。彼女の夫であり、同じ大学病院の医師を務めている夫の嘆きは激しかった。それもそうだろう、これから幸せな結婚生活を送ろうとしていた矢先に、人生の伴侶である妻を失ってしまったのだから。
現場に残された靴跡から、犯人は20区の厄介者“美食家”だと判明した。数年前から20区で活動し始めた喰種だが、正体の手掛かりになるようなものは分かっていない。靴のサイズからして美食家は男、それも数年前は今よりも靴のサイズが小さかったことから、成長期を過ぎた20代の青年だと考えられているが、この20区にその条件に当てはまる人間は星の数ほどいる。もしかしたら、この雑踏の中にいる誰かが美食家かもしれない。
「谷崎さん、一回どこか入って暖まりませんか」
後ろを歩いていた部下が声をかけてくる。今年うちの班に配属になったばかりの二等捜査官だ。まだ小さな尾赫のクインケの所有しか許されていない尻の青い新人だが、それなりに熱意はありつつも手を抜けるところは抜いているあたり抜け目がない。熱意の強すぎる者は往々にして早く死んでしまうから、多少肩の力を抜いているほうがコンビ相手としては安心だが。
「ああ、そうだな。だいぶ外を歩き回っていたし、どこかに入って休むか」
「最近この近くに、美味しいコーヒーの店あること発見したんです。そこに行きましょう!」
私の返答を聞くことなく、彼は勝手に目的地を定めて笑顔で進んでいってしまった。仕事中は真面目にやっているくせに、休憩になると途端に少年のような気侭さを見せるこういうところが憎めないのだ。
部下に案内されて喫茶店に入ると、人気店なのか客席の多くが埋まっていた。幸いにも店の隅にある二人用の席が空いていたらしく、待たされることなく店員に案内される。
椅子に座り、仕事道具のアタッシュケースを足元に置くと、ふっと肩の荷が下りる。この仕事道具は持っているとどうしても仕事中だという意識になり、肩肘を張ってしまうのだ。部下と同じように、着ていたコートを脱ぎ椅子の背に掛ける。
「谷崎さんは何にします?」
「君のおすすめで構わないよ」
「アイスとホット、どっちが良いですか?」
「この寒いのにアイスを頼むのか君は」
彼はあははと笑い「じゃあホットですね」と言うと、店員を呼びブレンドコーヒーを二つ注文した。しばらく待っていると、店員が盆にコーヒーカップを二つ乗せてやってくる。「ごゆっくりどうぞ」と目の前に置かれた部下おすすめのコーヒーは、なるほど確かに芳醇な匂いを発していて美味しそうだ。
私は甘いものが苦手なためコーヒーはいつもブラックしか飲まないが、部下の方はそうではないらしい。コーヒーに大量の砂糖を入れ、さらにそこにミルクまで入れている。それでは味が変わってしまうのではと思ったが、本人がそれで良いなら他人が口出しすることではないか。
「いやー今日も手掛かりなさそうですね」
砂糖のコーヒー漬けを口にしながら、部下が今日の成果について話しかけてくる。店内は賑やかで混雑しているし、周りの席も空いているので特に問題はないだろう。
「そう簡単に手掛かりが掴めるようでは20区の厄介者などと呼ばれないさ」
「そもそも、なんで美食家ってこんなおかしな食べ方ばかりするんですか?ふくらはぎだけ食べたり、局部だけ持って行ったり」
「それが彼が美食家と呼ばれる所以だな。彼はどうやら食に対して並々ならない拘りがあるようだ。まるで人間のようにね」
東京23区のどこかにあるという“喰種レストラン”にも美食家は関わっていると聞く。人間の中に絶品料理を追い求める者がいるように、喰種にも喰種なりの美食の概念があるんだろう。その対象が人間だということが心底おぞましいが。
「喰種が人間の真似事ですか。こいつの事件、そういうところが嫌なんですよ。食べるために殺してるっていうのが分かって。人間の真似をするならするで、もっと感情的になってもらいたいです」
食べるために殺している。
確かに部下の言うとおり、美食家は食の求道のために人を襲う。彼は、獲物の特定の部位しか食べない。ランナーの男性なら足を、瞳の美しい女性なら眼球を。
しかし、何事にも例外は存在した。
「感情的か……いや、美食家にもそのような事例はあるぞ。6年前の『20区一家惨殺事件』なんてまさにそうだ」
20区一家惨殺事件。
それは喰種“美食家”によって引き起こされた事件の中でも、一際異彩を放つものだった。
他の区に比べて比較的喰種の行動が穏やかな20区に相応しくないあまりに無残な殺害現場に、最初は人間による怨恨のためだと思われていたほどだ。父親と息子は赫子で心臓を一突きされた後四肢を切断、母親は首を切られ、内臓は体外へ引きずり出されて四肢は切断後著しく損壊、舌は切り取られ、眼球も片方だけしか残されていないという酷いものだった。
彼女は夫が職を失ったとき生活に困り周囲に僅かながら借金をしていたというから、借金返済で揉めての犯行かと思われたが、切断面から赫子の分泌液が検出されたことで喰種の犯行だと分かった。
しかし喰種の仕業だと判明したときも、20区のCCG支部の捜査官の誰一人として、その喰種が美食家だと予想できなかった。いつもの美食家の“食事現場”は一目でそいつの仕業だと分かるほど秩序立った食べ方をされていて、彼の知能の高さが伺えるものだったからだ。喰種の中には字も読めず戸籍すら存在しない者もいたが、その洗練された“食事現場”から、彼は教養ある中流階級以上の暮らしをしているのではないかと考えられているほどに。
しかし件の一家は、獣が腹も空いていないのに遊びのために食い散らかしたのかと思うほど惨いものだった。息子や夫のほうは一口かじっただけで飽きたらしい。二人の体の部品たちは興味がないとでも言うようにダイニングの隅に転がされていた。その代わりとも言うべきか母親のほうは死体の損壊が激しく、引きずり出された内臓はすりつぶされ、どれがどの臓器か容易には判別出来ないほどだった。唯一の救いとも言えない救いは、彼女が殺されてからバラバラにされたことか。首の切断面以外に生体反応は見られず、首を切られた後喰われ、遺体を損なわれたものと考えられる。
現場の検証は厳しいものだった。8月の猛暑のせいで現場には異臭が漂い、虫も沸いていた。三人の遺体は検死のため回収されていたが、カーペットの元の色が判別不可能なほど染み込んだ大量の血液や、家具の隙間に挟まった回収しきれなかった細かな肉片は暑さで腐敗が進み酷い悪臭を放つようになり、その臭いは家中に籠もっていた。私の所属する村田班の担当は美食家だったため、それまでにも彼の事件をいくつか見ていたが、それまでの事件とはまるで様相が異なっていると、現場を見て誰もが思った。
第一に、美食家は床一面を血だまりにするような食べ方はしない。テーブルマナーが行き届いているのか普段の彼の食事現場はとてもきれいだが、その事件では床どころか壁や天井にまで激しい血飛沫が飛び散るような殺し方をしていた。第二に、美食家は遺体の激しい損壊は好まない。喰種の中には被害者を拷問してから喰らう者もいると聞くが、彼はむしろその逆、被害者の狙っている部位以外は必要最低限の傷しかつけなかった。第三に、美食家はそもそも一度に複数人を食べはしない。彼が家族全員を殺したのは、後にも先にもその事件だけだった。
その捜査中に誰かが言った、「まるで美食家本人が彼女に強い怒りを持っていたようだ」という言葉を私は忘れることができない。美食家らしからぬ不可解な現場。しかしあれが“食事現場”ではなく“殺人現場”だとすれば、納得はいった。美食家は、母親に強い怒りを覚えていたのだろう。
巨大な血だまりが出来る程死体を損壊したのは、食べるための獲物ではなく、殺すための獲物だったから。父親や息子を殺したのも憤りを発散させるためだろう。これは推測だが、この事件で美食家は赫子を使う必要などなかったに違いない。美食家はそもそも赫子を使わずに被害者を殺すことも多く、犯人像や手口、足跡などで彼の仕業だと分かることが多いのだ。それでも赫子を使ったのは、被害者により深い恐怖を味わわせるためだ。ヒトの姿をしていながらヒトではない怪物に殺される恐怖は、如何ほどのものだろう。彼の甲赫で命を刈り取られた顔は、三つとも恐怖に顔を歪ませていた。
母親は、何をして彼を怒らせたのだろう。
あそこまで怒りの色がはっきりと見られる殺し方をされるような、いったい何を。
「一家って言っても、確か生き残った子どももいましたよね?」
考え込んでいたようだ。部下に声をかけられ、一気に現実へ引き戻される。
「ああ、金木君だね。覚えているよ」
金木研君はその一家惨殺事件で唯一遺された子どもだ。浅岡夫婦の子どもではなく、妻の妹が亡くなった際に引き取った少年。最初に現場に駆け付けた警官の話では、血濡れの学生服を着て玄関先で放心していたというから、彼はあの現場を見たに違いない。12歳の子どもが体験するにはあまりに過酷な経験だ。彼は4歳で父親を、10歳の頃に母親を亡くしていて、引き取ってくれた伯母家族も12歳で失ってしまったのだ。
「その子はどうしたんですか?」
「ある裕福な家庭に引き取られたよ。その家の息子が金木君の友人で、ぜひ彼を家族に迎えたいと言ってきたそうだ」
喰種に家族を奪われた子ども達は、多くが喰種を憎み家族の仇を討とうとアカデミーに入って私のように捜査官になる。怒りに捕らわれ続けるのは心を疲弊させていく原因だと分かっているが、それが私の機動力になっているのも事実だった。
だからこそ私は、金木君に引き取り手が現れて彼もそれを了承したことを心の内では安堵していた。喰種捜査官は、死に非常に近い存在だ。平和な人生とはとてもじゃないが言えない。平和な世界に戻れるのなら、そのほうが余程良い。
「良かったですね、その金木君。家族になってくれる人がいて」
「ああ、今どこにいるかは分からないが、幸せでいてくれると良い」
捜査中、CCGで保護されていた彼に事情聴取する際話す機会があった。その時「ご家族を亡くしたのは辛いと思うが」と言った私に、彼が唯一零した「伯母さんたちは家族じゃなかったです」という言葉。彼にとって、伯母の家は居心地の良い場所じゃなかったのだろうか。だから、彼だけ美食家に見過ごされたのだろうか。
……いや、そんなことはどうでもいい。
今、彼は喰種とは関係のない世界で暮らせている。
その事実だけが重要で、最も価値があるのだから。
甘党の部下はコーヒーもどきをさっさと飲み終わって、暇そうに壁に貼られたメニューを見ている。ケーキの写真が載せられた貼り紙をじっと見ているので、「奢るから頼んでも良いぞ」と笑うと、彼はぱっと顔を輝かせた。店員を呼んで「ショートケーキひとつ!」とコーヒーを頼んだ時とはまるで違う調子で追加注文する。
「ありがとうございます、谷崎さん!」と屈託なく笑う彼に苦笑していると、がん、と音がして、足元近くに置いていたアタッシュケースが少し離れた床に転がって行った。
「わっ、すみません!よそ見をしてて!」
「いや、こちらこそすまない。通路に出ているのに気が付かなかった」
どうやらケースが通路に少し出ていてしまったようで、私たちが座っていた席からは見えない店内の奥の方から出てきた青年が、気付かずに蹴ってしまったらしい。私は急いで立ち上がり、その黒髪の青年も慌ててそれを拾おうとしたが、その前に彼の連れだと思われる随分と綺麗な顔をした青年が拾って渡してくれた。
「ありがとう。君、怪我はないかい?」
「はい、僕は。それよりケースのほうは……」
「このケースは頑丈だからね。ちょっとやそっとじゃへこみも壊れもしないさ」
何て言ったって、CCGのラボラトリーにいる優秀な科学者たちが作り出した対喰種兵器だ。一般人がどんなに強く蹴っても壊れることはない。むしろ蹴った側のほうが怪我をしてしまう可能性だってあったが、青年のほうも怪我はないようだ。
私の返答に安心したのかほっと表情を緩めた顔に、何故だか見覚えがある気がして不躾にじっと見てしまった。その視線を受けて不思議そうに首を傾げていた青年は、突然閃いたとでも言う風に「あ!」と声を上げた。
「もしかして谷崎さんじゃないですか?金木研です、6年前の事件でお世話になった」
思いがけず出てきた名前に、目を瞠って彼を見てしまう。12歳の少年が18歳の青年になれば身長も声も変わってしまうが、小さな頃の面影は残る。
そうだ、見覚えがあるはずだ。彼はちょうど先程まで話題に出ていた、金木研君その人だ。
「金木君か!大きくなったな!」
「そうですか?月山さんには大学生になっても小柄だねって言われるんですけど」
「いやいや、私が知っているのは12歳の君だからね。その頃に比べれば十分大きくなったよ。ところで月山さんとは?」
「あ、彼です。僕を引き取ってくれた、家族です」
私と金木君のやり取りを横に立ち静かに見ていた端整な顔の青年を、家族だと頬を染め照れくさそうに紹介する金木君に、内心驚くと共に安堵した。伯母家族を“家族”だと思えなかった彼は、引き取られた先で随分よくしてもらえているようだ。
金木君に紹介されたことで、初めてその「月山さん」が口を開いた。端麗な容姿でにこりと笑いながら握手の手を差し出してきたので、私も応えて右手でそれを握る。
「ボンジュール、月山習です。カネキくんがお世話になったということは、もしかしてCCGの捜査官の方かな?」
「ああ。今は休憩中でね」
「6年前の事件を捜査なさっていたということは、つまり美食家の捜査を?最近何か大きな事件でもあったのですか?」
「はは、捜査中の事件については言えないよ」
「idiot me……それもそうだ」
彼は握手していた右手を離し、それを額に当てて自嘲するように首を振った。芝居じみた動作に私は少し面食らったが、金木君が呆れたように見ているということは、これが彼の通常なのだろうか。
「谷崎さん、捜査大変だと思いますけど頑張ってください」
「ああ、ありがとう。金木君も大学生活を楽しんで」
はい、と6年前とはまるで別人のように何の翳りもない眩しい笑顔で金木君は笑うと、二人で連れ立って出入り口へと歩いて行った。立っているままでは邪魔だと気付き椅子に座り直すと、後ろから二人の会話が聞こえてきた。振り返ると、二人が仲良さ気に話しているのが見えた。月山君がまるで女性をエスコートするかのように金木君の肩を抱いている姿に少し驚かされる。
「それよりカネキくん、もうすぐ誕生日だが何か欲しいものはあるかな?」
「毎年言ってますけど、誕生日プレゼントなんて良いですってば」
「ハァトブレイク……家族なのだから誕生日を祝いたいと思うのは当然だろう?」
「そうやって落ち込んで見せれば僕が何でも言うこと聞くと思ってるんでしょう」
「聞いてくれないのかい?」
微笑む月山君に、はあ、と金木君が溜息を吐く。
「……じゃあ、もうすぐ好きな作家の全集が出るのでそれ買ってください」
「そんな安いもので良いのかい?もっと時計でも靴でも……」
「それ、いつも貴方に贈られてるものじゃないですか……。月山さんって、僕が買ってと言ったら星でも買ってくれそうですよね」
「君が望むなら星でも月の土地でも買ってあげるよ」
からんからんと扉についたベルが鳴り、二人は外へと出て行った。
名残惜しく彼らの去っていく後姿を見続けていた私に、部下が声をかけてくる。そういえば、金木君と私が話している時一切口を挟んでこなかった。気を使ってくれたのだろう。いつの間にか来ていたケーキにフォークを刺し込みながら、部下は笑う。
「谷崎さん、良かったですね。金木君、幸せそうで」
「……ああ、そうだな」
金木君が笑っていてくれて良かった。6年前からずっと気にしていたのだ。彼が私のように喰種への復讐心に囚われているんじゃないかと。しかしそれは杞憂だったようだ。青年と話す彼の笑顔に翳りはなかった。
「ケーキを食べ終わったら、さっさと捜査に戻るぞ」
「はーい」
彼の笑顔を守るためにも、早く喰種を殲滅させなければ。
「そのためには、まず“美食家”から捕まえなければな」
美食家が、せっかく出来た家族と呼べる人を彼から奪うことのないように。
私が彼のためにしてやれることは、それくらいだ。
実はカネキくん(12)の不幸の原因である伯母さんに、月山さん(15)は結構怒っていたんですよって話でした。
このカネキくんと月山さんは、白鳩の前でもスマートにすっとぼけてくれます。
文中の女性看護師の事件は、小説「日々」より。たぶん11月の中旬から下旬にかけての事件だろうなと。