思えば、出会ったときから彼はおかしな人だった。

 

 父さんは僕が幼い頃に死に、母さんもまた2年前に過労で死んだ。

 両親を亡くした僕を引き取ったのは母さんの姉である伯母さんがいる浅岡家だったけど、そこに僕の居場所はなかった。伯母さんの夫も子も僕には一切興味を示さず、いないもの同然として扱っていた。彼らは僕を、言葉を発する家具程度にしか思っていなかったんだと思う。維持費に金がかかる分、家具より悪い認識だったかもしれない。そして伯母さんは、それなりに出来の良い僕とあまり出来の良くない自分の息子を、僕の母さんと伯母さん自身に重ねては、昔から自分を蝕んできた劣等感を僕にぶつけていた。

 僕が中学生になる頃には、もはや同じ食卓を囲み暖かい食事をとることも許されず、机の上に置かれている冷たい硬貨を持ってフードチェーン店に行き夕飯を食べるのが常だった。コンビニなどで何か買ってきて自分の部屋で食べる日もあったけど、階下から家族団欒の笑い声が聞こえてくるたび、そこから弾き出された自分が嫌でも思い出されて惨めな気持ちがじわじわと心を侵食してくるから、僕はあまり浅岡の家でご飯を食べるのが好きじゃなかった。時折、そんな僕の状況を案じた親友のヒデが一緒に食べてくれる日もあったけど、中学生が毎日外で夕飯を食べるわけにも行かず、フードコートとかで一人で食べてばかりだったと思う。

 

 彼と初めて会ったのは、そんな夏の初めのある日のことだった。

 

 

 

 月の綺麗な夜だった。

 せっかく洗われた貝殻のように白い三日月が浮かんでいるのに、冷房が効いた屋内で食べるのは勿体ない。日が沈んで昼間よりは涼しくなっていたから、僕は中学の近くにあるハンバーガーチェーン店でハンバーガーとフライドポテトを買って、浅岡家から少し離れた公園でベンチに座り夕飯を食べていた。一人で食べるご飯が味気ないものだと気付いたのは母さんを亡くしてから。雲のない天上に浮かぶ三日月は寡黙で、僕の話し相手にはなってくれそうにない。

 今はまだ夏休みが始まっていないから、給食のときヒデと一緒に昼食を食べられるけど、夏休みに入ったら一人で食べることになるのかな。あの家は居心地があまり良くないから、夏休みは図書館に籠っていよう。あそこなら空調も効いているし、ロビーでなら飲食も許されるし、何より本のにおいは母さんと住んでいた家を思い出させて、拠り所のない僕の心を落ち着かせてくれる。

 今日は5限目に体育があったからお腹が空いていた。買ってきたハンバーガーを紙袋から出して、ラッピングペーパーから顔を覗かせたパンズに挟まれたハンバーグを一口口に含む。不味くはないが、やっぱり味気ない。喉に無理矢理それを通すようにペットボトルに入った水を飲んでいると、突然声が聞こえきた。

「……へえ、たまには遠回りをしてみるものだね。思わぬ掘り出し物だ」

 びっくりしながら辺りを見回すと、公園の入り口近くに制服を身に纏った少年が立っていた。月明かりの中で顔立ちははっきりと見えないけど、年の頃は僕よりも少し上ほどに見える。

 今のは、僕に話しかけていたのかな。僕が考えているうちに、少年は歩みを進め、気付いたら僕の座るベンチのすぐそばまで来ていた。

 近くで見れば、街灯に照らされたその少年の容姿が整っていることはすぐに分かった。切れ長の目にスッと通った鼻筋、日焼けなんて知らないだろう白い肌、すらりと伸びた手足。顔の美醜に拘りはなかったけど、まるでモデルのようだなあと思った。

 そのモデルのように綺麗な顔をした彼は、僕のすぐ近くに来て立ち止まると、ハンバーガーやポテトが置かれた左側とは反対に何の断りも入れずに座った。このベンチは公共の物だから断りを入れる必要はないと思うんだけど、それにしたって座った位置が僕に近すぎた。あと少しで腕と腕が触れ合うくらいの間隔しかない場所に座られて驚いていると、さらにその人は突然僕の首筋に鼻を近づけてにおいを嗅いだ。

 

「フゥン、鼻孔をくすぐるこの芳醇な香り!随分と郁々たる香りがするじゃないか!君、名前は?」

「か、金木研です、けど」

 

 え、な、なに。

 芳醇な香り、って何のことだ……?

もしかして、このポテトのことを言っているのかな?でもこれはMサイズ150円の至って普通のフライドポテトで、そう珍しいものでもないはずだ。それとも340円のハンバーガーのほう……?

 というか、この人なんでこんなに近いんだ……?

 その人と僕との距離は20センチもない。いたって平凡な僕はいたって普通のパーソナルスペースを持っているから、初対面の相手にここまで近づかれることなんて今までにない。

 ずっと後に僕は、この時月山さんに抱いた「変な人」という第一印象は、これ以上ないくらいこの人を示すのにふさわしい言葉はないって思うんだけど、それはまだ先の話。

 顔を近づけてくる少々おかしな少年に、僕は手にしていたバーガーを紙袋の中に戻して、おずおずと別のものを差し出した。

 

「あ、あの、よければこれ食べますか?」

 

 この変な言動はとてもお腹が空いているからかもしれない。そう思って僕が左側に置いていたフライドポテトの入れ物を彼に差し出すと、彼はその入れ物の中身が何かを理解した瞬間、右手を額に当てて宙を仰いで「愚かな!」と叫んだ。

 

「idiot!ジャンクフードなんか食べているのかい!?」

 

 芝居がかった言動にちょっと(これがとても控え目な表現だということを伝えておきたい)引いていると、少年は急に何か語り出した。

 

「ノンノン、まったくよろしくない!ジャンクフードは所詮ジャンク。空腹を満たすことはあっても乾いた心を満たすものにはなりえないというのに。カネキくん、君のような僕に選ばれる人間は、選ばれた食材を食べなければいけないよ!」

「はあ……」

 

 なんだこの人。人の夕飯にケチをつけに来たのか?

 確かに僕がいま口にしているものは紛れもないジャンクフードの一つではあるだろうけど、僕の今晩の夕飯には違いないのに。

 というか選ばれるってなんだ。僕は誰かに選ばれた覚えなんてないぞ。

 変な人に絡まれたと、珍しく公園で一人で夕飯を食べようと思った一時間前の自分を恨んでいると、目の前の少年は急に黙って顎に手を当てながら少し考え込むようにする。次はどんな言葉が出てくるんだと戦々恐々としていると、彼はふっと目を細めて僕の方を見てきた。その表情がとても綺麗で、ついさっきまでの風変わりな言動から受けていた印象がすっかり抜け落ちてしまいそうになるほどだった。

 

「君はいつもここでディナーを食べているのかい」

「えっと、今日は月が綺麗だったからここで食べていただけで……」

「なるほど!それでは、また月の綺麗な晩にここを訪れれば君と会えるということかな?」

「は?」

 

 もう月が綺麗でも星が綺麗でも一人で外で食べるのはやめようと考えていたところに、そう思わせた本人からおかしなことを言われる。僕に会いに来て、一体どうするっていうんだ。まさか夕飯をたかりに?と思ったけど、この人の身を包んでいる服は、確か晴南学院大学付属高等学校、俗に言う名門セレブ校のものだ。僕にたからなくても家に行けばもっと美味しい料理が待っているはずだ。

 

「会いに来て、どうするんですか」

「君のことをもっと知りたいから。それが理由では駄目かい?」

 

 秀麗な顔で微笑まれれば、何も言えなくなってしまう。

 僕のことを知りたい?何故?僕の事なんか知って、この人に何の利益があるっていうんだ。

 沈黙を許可と取ったらしい彼が、胸に手を当てて僅かに僕の方へ身を乗り出してくる。

 

「ああ、名乗り遅れたね。僕の名前は月山習。気軽に月山さんとでも月山くんとでも呼んでくれたまえ」

 

 月山習。それがこの綺麗だけど変な人の名前。

 よく分からない展開に僕が戸惑っていると、その”月山さん”は左腕にしていた腕時計を見て「おやもうこんな時間か」と言った。シンプルだけど高そうな時計だ。これは後で彼と仲良くなってから知ることだが、それはブランドもので20万近くするものらしい。

 彼はすくっとベンチから立ち上がると、「もう少し話したかったのだが、そろそろ”獲物”が帰宅する時間だからね」と言う。その言葉の意味はよく分からなかったけど、最初からよく分からないことしか言わない人だから、この人はいつだってこういう人なんだろう。

 

「それではカネキくん!また会おう!」

 

 右手を上げて別れを告げると、彼は来た時と同様に、確固たる足取りで颯爽と公園の外へ消えて行った。

 

「なんだったんだ……」

 

 どっと体を疲労感が襲う。まるで嵐だ。

 でも。

 

『君のことをもっと知りたい』

 

 そんなことを人に言われたのは初めてで、自分がらしくもなく嬉しがっていることに気付く。ヒデくらいしか友人と言える相手がいない僕のことを、新しい家族に見向きさえされない僕のことを、知りたいと言ってくれる人がいた。その事実が少々沈んでいた心を甘くくすぐる。

 

「……また来てみようかな」

 

 次の月の綺麗な夜に。月山さんは、本当に来てくれるのかな。もし来てくれるなら、その時はもっとちゃんとしたご飯を持って来よう。彼にまたケチを付けられちゃたまらない。

 絶対にもうこの公園には近づかないでおこうと思っていたのに、いつの間にか自分の心はまた彼と会える日を楽しみにしていた。

 

 

 

 三日月の綺麗な夜の、おかしな人との一時。

 それが、僕と月山さんとの出会いだった。

 

 

 

 

 

「カネキくん!」

 

 今日も月山さんは缶コーヒーを持って公園に現れる。

 

 あの日から五日後、ああ今日の月は綺麗だな、と思ってコンビニ弁当を持って公園に行ってみると、本当に月山さんはやってきた。ちょうど彼と会ったその日に、その公園から少し離れたところでアパートに帰宅した男性が喰種に襲われた事件があったから、暗くなってから出歩く人は少なかったので、彼は来ないんじゃないかと思っていた。

 それを本人に告げると、「僕はそこらの喰種になんて負けないさ。僕のほうが強いからね」と自慢げに言ってきたので「確かに月山さんは強そうですね」と笑ってしまった。彼ならきっと、喰種だって自分のペースに巻き込んでしまうに違いない。

 

 月山さんのいる食事は、それなりに楽しかった。

 

 読書家な彼とは本の趣味も合い、友達が少なく本の感想を言い合える相手がいなかった僕にとって、初めての読書仲間になった。自分とは違う視点からの読評は、その本の新たな一面を垣間見せてくれた。父さんの遺していった本の多くは日本の作者のものだったので僕は日本文学を特によく読んでいたけど、月山さんは英米文学や仏文学など、海外のものを好んで読むらしい。月山さんに本を薦めてもらったら、僕は次の日には区の図書館に行ってそれをすぐに読んだ。その多くはフィクションだった。どれもが面白くて僕は閉館時間ぎりぎりまで図書館に籠もって読みふけった。彼も僕の薦めた本を読んでくれて、次に会うときはお互い読んだ本の感想を言い合った。

 もちろん話したのは本のことだけじゃない。他にも、彼と話し彼のいろんなことを知った。月山さんは制服が示す通り晴南学院大学付属高校の1年生で、僕とは3歳差であること。月山さんの家は政財界とも関わりの深い名家で、月山さんには松前さんというお付きの女性がいること。

 それと、月山さんはとても食に煩いということ。

 美食のためならどんな努力も惜しまず、熟成のために何年待つことも厭わないらしい。初めてこの公園で会ったときにハンバーガーに難色を示したのも、きっとジャンクフードが彼の美学に反したからなんだと思う。彼はコンビニ弁当にも難色を示したものの「まあ食生活はあとでどうとでもなるか」と、また僕には分からないことを眉根を寄せながら。

 月山さんは誘っても決して僕と同じものを食べようとしなかったけど、それも恐らく公園のベンチで手軽なものを食べるなんて彼の食の美学を損なうからだろう。代わりに缶コーヒーばかり飲んでいた。彼曰く「僕が何も飲み食いしていなかったらカネキくんも食べづらいだろう?本当はサイフォンで丁寧に抽出したものを飲みたいんだが、持ち歩くわけにもいかないからね」らしい。一緒に同じものを食べられないのは少しだけ寂しかったけど、誰かと世間話をしながら食べる夕飯は美味しかった。

 

 月山さんはよく喋る人だ。知り合ったばかりの相手と上手く会話が繋げない僕のことなんてまったく気にせずに、つらつらと好きな本の一節や新しい味の発見の素晴さを語り続けるので、僕は相槌を打ったり返せる話があるときだけ思ったことを口にすれば良かった。

 そんなお喋りな彼につられて、僕もいろんなことを話してしまった。近くの公立中学に通っていること。友達は多くないけど、小学校からの親友が一人いるからなんとか内気で優柔不断な僕でも孤立せずにいられること。それに、家族のこと。

 家族の話になったのは、僕が本を読むようになったきっかけを話しているときだ。

 

 

 

「父さんが読んでいた本の文字を追っていると、父さんと話しているような気持ちになれたんです。分からない文字は母さんが教えてくれて」

「へえ、君の父親は良いものを残してくれたね。本は知恵の宝庫、そして知恵は最大の宝だ。それに何より、どんなに辛く苦しいときも物語がそれを忘れさせてくれる」

「月山さんにもそんな時があるんですか?」

 

 出会ってからまだ少ししか経ってないけど、月山さんはいつも人生を楽しんでいるように見えた。この人を悩ませることの出来る事象なんてこの世にはないと思わせるような人柄だったのもそう思う理由の一つだ。僕の問いに「まあね」と彼は笑った。

 

「僕は少々難しい立ち位置にいるからね。ところで前から気になっていたんだが、カネキくんは家族がいるのに何故こんなところで夕飯を食べているんだい?」

「そ、れは……」

 

 いつかされると思っていた質問だが、いざぶつけられるとぐっと心臓が掴まれるような感覚に陥る。

 

「ああ、答え辛ければ答えなくてもかまわないよ。すまないね、僕は昔から僅かばかり人のテリトリーに踏み込み過ぎるきらいがあるんだ」

「いえ、隠すことでもないので……その、母さんが死んで今は伯母さんの家にいるんです」

「なるほど。伯母さんの家は居心地が悪いんだね?」

「それは……」

 

 悪い、とはっきり答えるのは僕を引き取ってくれた伯母さんに申し訳なかった。

 しかし言い淀んだ僕から明確な答えを受け取った月山さんは「カネキくんの母親はどんな人だったんだい」と、質問の方向を変えてくれた。

 

「母さんは……優しい人でした。働き者で、立派で、料理も得意で。たくさんの人に好かれてたんです」

 

 母さんのハンバーグが、僕は大好きだった。母さんの作る物はなんでも美味しくて、小さい頃は母さんの手は魔法の手で、触ったものを全部美味しくすることが出来ると信じていたくらいだ。

 

「伯母さんのことも大切にしてたんです。僕と伯母さん二人分のことを背負ったせいで、母さん倒れちゃったんですけどね」

 

 僕がもっと大きければ、働いて母さんを支えることも出来たのに。10歳の小学生に出来ることなんて、せいぜい母さんの代わりに家事を少しやることぐらいだ。取り込まれた洗濯物を畳んだり、部屋を掃除したり。「大丈夫」そういって笑う母さんの言葉を不安に思いながらも信じていたけれど、やっぱり母さんは大丈夫じゃなかった。ある日小学校で授業を受けていると、突然学年主任の先生に呼ばれて病院に連れて行かれた。そこには冷たくなった母さんがいた。パート先で倒れて、病院に運ばれた時にはもう心臓が動いていなかったらしい。

 僕の言葉に、月山さんは理解できないとでも言うふうに眉を顰めた。

 

「フゥン?僕ならそんな姉なんて放って君だけを選ぶのに」

「母さんは優しい人だったから、そんなこと出来ないですよ」

「確かに、優しいのだろうね。でもその優しさのせいで君は今一人孤独に喘いでいるじゃないか。僕ならば君を一人になんてしないよ」

 

 母さんの優しさを否定するかのようなその言葉に、ざわざわと心が揺れる。この心を揺らしている感情はなんだろう。不快感?寂寞感?そのどちらでもないような気もしたし、そのどちらでもあるような気もした。

 突然、頬に手を添えられ月山さんのほうに顔を向かされる。そこでやっと、僕は自分が俯いていたことを知った。目尻を親指で擦られたのがくすぐったくて、唇を噛みしめていた力が緩む。

 

「良かった、泣いているのかと思った。すまない、君の母親の努力を馬鹿にしているわけではないよ。不快に思ったなら謝ろう。だが、今のカネキくんがあまり幸福そうに見えないのが気になってね」

 

 分かってる。月山さんは最初から不思議なくらい僕に優しくて、いつだって僕が欲しい言葉をくれた。さっきの言葉も、月山さんの優しさから来るものに違いない。「僕は大丈夫ですよ」と笑うと、月山さんも「なら良かった」と笑ってくれた。頬に触れている手が離れてから公園の真ん中にある時計を見ると、もう21時を回っていた。いつの間にかかなりの時間話し込んでいたみたいだ。

 

「食べ終わったし、もう遅いのでそろそろ今日は帰りますね」

 

 立ち上がると、空になった弁当の容器を近くにあったゴミ箱に捨てる。

 ベンチの上に置いていた学生鞄を持って公園を出ようとすると、後ろから月山さんが追いかけてきた。こんなことは初めてなので驚いて立ち止まると、彼はにこりと口元をゆるませながら、これまた初めての提案をしてきた。

 

「家の前まで送っていくよ」

「え、良いですよ。本当にすぐ近くですし」

「その短い距離の間で、君が何者かに襲われないとも限らないだろう?」

「何者かって、一体誰が僕を襲うっていうんですか」

「そうだね、たとえば……喰種、とか」

「喰種?あはは、僕みたいなのなんて食べても美味しくないですよ。それだったら月山さんのほうが危ないですよ」

 

 成長期がまだ来ていない僕は体のどこも薄くて、見た目も至って平凡だ。それに比べて月山さんは自己鍛錬が好きって言っているだけあって程良く筋肉がついているし、なにより男の僕から見ても綺麗な顔立ちをしてる。喰種だって、食べるなら僕みたいなのより月山さんのほうを食べたいと思ってしまうに違いない。一ヶ月前に、この近くで男性を襲った喰種”美食家”も、女の人の綺麗な目とか、指の綺麗な女性の手とか、綺麗なものばかりを狙うって聞いたことがある。

 

「僕かい?僕から見れば、君の方がよっぽど美味しそうだけどね。この白い首なんて特に」

「わっ……!?」

 

 首筋を触れてきた手に驚き思わず声があがる。この人からのスキンシップにはだいぶ慣れてきたけど、やはり突然触られるとびっくりしてしまう。

 

「なにするんですか!」

「嫌だったかい?」

「急に触られたら誰だってびっくりします!せめて前置きをしてください」

「それじゃあ前置きをしたら味見も許されるのかな」

「味見?味見好きなんですか?」

「ノン、君は人生のメインディッシュ!それを味見するなんてそんな野暮なこと、この僕がするわけないからね!」

「はあ……?」

 

 左手を胸に当てると右手を宙に伸ばし、軽く体を仰け反らせて叫ぶ。また月山さんの変な言動が始まった。奇想天外な振る舞いはもうこの人の癖のようなものだから、さらっと流すより他にない。

 これと決めたら強情な人だから、僕が首を縦に振らなくても家の前まで勝手に着いてきそうだ。嘆息して、彼の提案を受け入れる。許可されたことに月山さんは気分を良くすると、まるで僕の家の場所を知っているかのようにしっかりした足取りでさっさと歩き始めた。急いでそれを追いかけて、横に並んだ。

 

 家に着くまでの道中で、もうすぐ夏休みだといった体の話をしていると、月山さんが「君さえよければ僕の家に来ないかい」と誘ってくれた。名家だというから、庶民の僕には想像も出来ないような豪邸に住んでいるに違いない。

 流石に気が引けて、どうやったら上手い断り方が出来るだろうと思考の海に沈んでいた僕には、月山さんが零した「招待するよ、力ずくでもね」という言葉は聞こえなかった。

 

 

 

 

 

 中学が夏休みに入ってからは、毎日のように図書館へ通った。

 休館日の月曜は中学の図書室に行っていたけど、やっぱり図書館のほうが本のジャンルが豊富に取り揃えられていて好きだった。図書室ではヒデと一緒に夏休みの宿題をやっていたけど、もっぱらヒデが分からないと言ったところを僕が教えていた。その日やる分が終わったら二人で外へ遊びに行って、日が沈んだらフードコートに行って二人で夕飯を食べた。

 

 今日は月曜ではなかったけど図書館が書庫整理のため休館で、ヒデも家の用事があるとかで一緒に遊べなかった。だから僕は時間ぎりぎりまで図書室に籠ると、そのまますぐに家に帰ることにした。

 今日は新月だから公園で月山さんと会うこともない。夕飯は外で食べようと思っていたけど、財布を家に忘れてしまったから外で食べるにしても一度家に帰らなければいけなかった。

 

 今頃伯母さんはおじさんや優一くんのために夕飯を作っている頃だろうかと憂鬱な気分になりながら浅岡家の近くに歩いて着く頃には、すっかり日が沈み空は藍色のベールに包まれていた。東京は星が見えないって誰かが言っていたけど、田舎ではもっとたくさんの星が見えるのかな。そういえば月山さんが「夏休みは僕の家の別荘にも連れて行ってあげるよ」と誘ってくれていたなあ。その誘いも断ってしまったけど、きっと彼の家の別荘って言うだけあって凄いものなんだろう。空気と水の綺麗な緑に囲まれた湖畔のほとりにあって、夜は綺麗な星がたくさん見えるに違いない。

 

「……あれ」

 

 おかしいな。

 家が見えたところで、違和感を覚え立ち止まる。遠目で見ても家の様子がおかしいことはすぐ理解した。どうして、灯りがついていないんだろう。もうおじさんは仕事から帰って来てるはずで、ダイニングで”一家団欒”を楽しんでいるはずなのに。

 

 おかしいと思いながらも、みんなで外食にでも行ったんだろうか?と結論付ける。何もない平日に外食に行くような人たちではないはずだけど、たまにはそういう日があるかもしれない。

 家の前まで来ても、中からは物音ひとつしない。やっぱり出かけてるんだ、と思って玄関扉に手をかけたところで、鍵が開いていることに気付く。

 何か、良くないことが起こっている気がした。

 玄関扉を開けると、嗅ぎ慣れない嫌な臭いがむわりと体を包む。

 急いで靴を脱ぎ、三人がいるであろうダイニングへ向かう。心臓が全力疾走をした後のようにドクドクと早鐘を打つ。この異臭、これは鉄の臭いだ。濃厚な鉄の臭いが、コップに注がれた水のように家中を満たしていた。一歩進むごとに臭いは強くなっていく。玄関からダイニングまでそう遠くないはずなのに、その距離が永遠にも思えた。そしてあと少しで目的の部屋の前に辿り着くというとき、カタリとダイニングのほうから音がした。

ゆっくりとダイニング通じる扉のドアノブに手をかける。勇気をこめて回そうとすると、その前にぐるりとドアノブが回りドアが開かれた。

 

そこにいたのは、思いもよらない人だった。

 

「おや、カネキくん。今日は随分帰りが早かったんだね。もう少し待たなければいけないかと思っていたよ」

「月山さん!?」

 

なんで、月山さんがここに?

いやそれより、月山さんの後ろに広がった光景は。

 

新月の今日、明かりの灯らない室内を照らすのは窓の外にある街灯だけだ。その街灯の光が、カーテン越しにダイニングの惨状を煌々と照らしていた。

テーブルの上にあるのは、あれは、人の腕ではないだろうか。

椅子の下に落ちているあれは、まるで人の足のように見える。

ソファの横に転がっている丸いものは、一体なんだ。

どうしてカーペットがこんなに赤いんだ。

どうして月山さんの眼は、こんなに赤いんだ。

 

僕の視線が何を見ているのか気付いた月山さんが、にこりと笑う。その顔は公園で彼が食について語っているときと同じものだった。月山さんはダイニングの入り口から離れると、ぴちゃり、ぴちゃりと足音を立てながら部屋の真ん中にあるテーブルのほうへ向かっていった。

彼は机上に置かれた腕(ああ、やはりあれは人の腕だ。だって伯母さんと同じ指輪をしている)を取ると、くるりと僕の方を振り返った。手に持ったモノを顔の高さまで上げ、ザクロのように真っ赤な目を細めて端整な顔で微笑する。

 

「カネキくん、いつか言ったことを覚えているかい?君は僕のメインディッシュだと」

 

思い出してみればそんなことを言っていたような覚えもある。あの時は月山さんのいつもの不可思議な言動の一つだと思っていたけど、あの言葉にはちゃんと意味があったんだ。

 

「君の前菜として味わってみたのだけれど、どいつもこいつも頂けないね。君の伯母だというこの女性も、カネキくんと近親関係にあるというからさぞ旨いのだろうと思ったのに、これでは老いさらばえた喰種でも食べていたほうがよっぽどましだったよ。美味な部分が一つくらいあるかと思って、らしくもなく食い荒らしてしまったよ」

 

興味を失くした彼によって腕は投げ捨てられた。それは赤い水たまりの上を転がり、僕の足元のすぐ近くまで来て止まる。

何日も水を口にしていないかのように干からびた喉から、何とか声を絞り出す。

 

「月山さんは……喰種、だったんですか?」

 

嗚呼、我ながら馬鹿な質問だ。

人に化け、人を喰う怪物。それが喰種。

血の海に沈む三人の死体の中に立ち、赫い双眸を輝かせ笑う少年。

彼が僕ら”人間”と違う存在だなんてこと、一目で分かる。

 

彼は、喰種だ。

 

その瞬間、僕は気付かされた。全部、僕を食べるための罠だったのだと。

この数週間の彼と過ごした楽しかった時間は全部、偽りだった。

新しい友人が出来たと思って嬉しがっていた僕を見て、月山さんは陰で嗤っていたのかもしれない。彼にとって、僕は所詮獲物でしかなかったんだ。

ぴしゃりと音がした。その音が血だまりの中に座り込んでしまった自分が立てた音だとは気付けなかった。彼の甘言に簡単に騙された自分が悔しくて、騙されていたと分かった今でもあの幸せな一時に縋ろうとする自分が虚しくて、喉から零れそうになる嗚咽を抑えるのに必死だったから。滲む視界に歪んだ世界が映る。

 

「ああ、泣かないでくれたまえカネキくん。実は君に一つ提案があるんだ」

 

提案、鸚鵡返しで言葉が零れた。今更見苦しく命乞いでもしろというのか、彼は。

 

「カネキくん。僕に飼われてみる気はないかい?ああ、勘違いしてもらっては困るが、ペットのように愛玩動物とするのではないよ。これから二年間、君に良質の衣食住すべてを提供し、君を最高の”美食”にしてあげよう!」

「飼う……?」

「そう、いわば養殖!脳や内蔵は約1年、筋肉は約200日、血液は4ヶ月、骨は2年。これが体細胞のおおよその入れ替わり期間と言われている。あのように劣悪な食事を口にしている君でもこんなに素晴らしい香りがするなら、良質な食事により形成された君はどれほど天上の味がするのだろう!この美食家月山習、天然物が一番だとは思っているが養殖にも手を出してみようと思うんだ!」

 

これ以上ない素晴らしい提案だと思っているらしい月山さんは、その提案を本当に僕が受け入れると思っているのか。

食べられるために、家畜のように飼い殺されるなんてまっぴらごめんだ。

 

「おっと!君がこれだけでは引き受けてくれないのは分かっているよ!実はこの提案には続きがあるんだ。こういうのはどうだろう!君が僕のディナーとなるまでの二年間だけではあるが、僕が君の家族になってあげよう。この僕、月山習が、君を家族として愛してあげよう!二年間、僕の家族であるという幸福を享受することが出来るのだよ。恐怖に満たされ硬直した肉よりも幸福でフランベされたとろけるように柔らかな肉のほうが美味なのは誰もが知っていることだ。君にも悪くない提案だろう?」

 

家族。その言葉に、ざわりと心が波立った。

僕が4歳の頃に死んでしまった父さんのことはほとんど覚えていない。優しかった母さんも10歳のときに死んでしまった。両親を失った僕を引き取った浅岡家の人々は、血の繋がりがあるだけで家族ではなかった。それでも唯一の肉親と言えた彼らも、月山さんに殺されてしまった。今この瞬間、僕は本当に一人になってしまったんだ。

月の綺麗ないつかの晩、母さんの話をしたときに月山さんが言った言葉を思い出す。

 

『僕ならそんな姉なんて放って、君だけを選ぶのに』

『僕ならば君を一人になんてしないよ』

 

その言葉たちは僕との距離を縮めるための、喰種が人間を懐柔するための策の一つだったのかもしれない。それでもそれらが持つ甘美な響きに、僕はあのとき確かに喜んでいた。あの時僕の心を揺らしていたのは、寂しさでも怒りでもなく、喜びだった。

 

寂しかった。

「傷つけるより傷つけられる人になりなさい」そう僕に言った母さんの顔は微笑んでいた。そんな優しい母さんが好きだったけど、母さんの優しさは僕以外にも向けられていた。伯母さんではなく、僕だけを選んで愛してほしかった。母さんが死んだ後も、伯母さんの家は普通に暮らせていた。結局のところ、彼らは母さんに無心しなくてもまともな生活は出来たんだ。そんな人達のために、僕は母さんを亡くした。僕は家族を失い、一人になってしまった。

今まで考えないようにしていたことが、どろりと黒く粘ついたタールのように心を満たしていく。

 

「家族……」

「どうだいカネキくん。僕はね、君のことを存外気に入っているんだよ。僕なら、君の良き友人となり、家族となるだろう」

 

差し出された手は、赤く染まっていた。伯母さんの血か、おじさんの血か。優一くんのものかもしれない。月山さんが喰種だということは、きっとこの手はもっとたくさんの人の血で染まっているんだろう。

 

彼の手を取れば、この血の中にいつかは僕の血も混じるんだろう。

 

だけど。

たとえそれが僕が”食糧”となることと引き換えに得られるものだとしても。僕は、僕だけを愛してくれる家族が欲しい。

そうなれば、僕に出来ることは一つしかない。

 

僕は手を伸ばすと、赫い目の「家族」の手を取った。

その手は、いつか繋いだ母さんの手のように温かかった。

 

 

 

 

「月山さん、昨日の服ちゃんと洗濯機のほうに出してくださいよ!あとマスク汚れたならちゃんと洗っておいてください!」

「calmato……カネキくん、今何時だと思っているんだい……」

「もう11時です。部屋が暗いのは貴方が遮光性の高いカーテンを買ったからで、そんなに眠いのは貴方が昨日夜更かししてたからです。今日は昼過ぎから個展を見に行こうって行ったのは月山さんでしょう。さっさと起きてください、寝すぎです」

 

寝室のカーテンを開け放ち、ダブルベッドの上で未だ寝汚く上掛けを被っている月山さんから寝具を無理矢理はがすと、彼はしぶしぶといった体で起き上がった。シルク100パーセントのネイビーのパジャマを着た彼は、寝起きでもその美貌を失わない。どことなく日本人離れしたはっとするような端麗な顔は、叩き起こされたせいでふてくされているが、そんな表情すらこの人の美を損なうことはない。

月山さんは、芝居がかった話し方や美食への妄執的なこだわりさえなければ鑑賞用としても申し分ない人だ。「口を開くと残念」の典型とも言える。そういえば初めて会ったときも、口を開くまではモデルみたいに綺麗な少年だと思ってたなあ、と何だか懐かしくなる。

 

パタパタと足音を立てながらキッチンに戻ると、ちょうどヤカンの湯が沸いていた。

コーヒーサイフォンのフラスコ部分へ二杯分のお湯を入れて、アルコールランプに火を付ける。ロートにフィルターを付けて、さっきコーヒーミルで挽いておいたコーヒー粉を入れる。豆は深煎りのコスタリカ、月山さんが最近気に入っているものだ。喰種は人間の肉かコーヒーの味しか楽しむことが出来ないから、肉の味に月山さんほど拘る人はそういなくても、コーヒーの味に強い拘りを持つ人は多い。水面がぐつぐつと沸騰してきたので、火を弱めてロートをフラスコに差し込むと、ゆっくりと湯がロートの方へと上がってくる。

湯とコーヒー粉が混ざり、ほろ苦い芳香な香りがキッチンを満たしていった。

 

 

 

あの後、月山さんの手を取った僕に、月山さんは「また迎えに来るよ」と僕の額にキスを落として、その場を去った。

赤で染まった浅岡家に残された僕は、それなら月山さんが来るまで待っていようと玄関先で座っていた。家の中は鉄臭くて、とてもいられたものじゃなかったからだ。

そうこうしているうちに、気付けば警察が来ていた。近所の人から「子どもが血塗れで玄関先で座り込んでいる」と通報があったらしい。血だまりの床にへたり込んだせいで、制服に血が染み込んでいたみたいだ。通報を受けて来た警官の二人のうち一人は服から赤い液体を滴り落とす僕に何があったのか聞いてきた。その時の僕がなんと答えたのかよく覚えていないけど、もう一人が玄関扉を開けてすぐに家の中の異変には気付いたらしい。玄関先まで臭ってくる噎せ返るほどの鉄の臭いで、二人とも家の中に駆け込んでいった。

その後はよく知らない。最初は平和な住宅街に似合わない凄惨な殺人事件だと思われていたが、損傷の激しい遺体の中に齧られた跡があることや赫子の分泌液が残されていたことから喰種の仕業だと分かったんだとか。その「一家惨殺事件」が少し前から世間を騒がせている”美食家”の仕業だと分かると、僕はCCGの保護施設に移された。喰種のせいで家族を失い身寄りをなくした子ども達が集められる場所だ。

喰種のおかげで新しい家族を得ることが出来た僕がいるにはあまりに不釣り合いな場所だった。周りはみんな家族を亡くした悲しみに塞ぎこみ、その仇を取ろうと喰種憎しな感情を露わにしていたけど、僕は月山さんを憎む気なんてなかったからだ。まあ、時々捜査官が事件当日のことについて話を聞きに来たとき以外ほぼ誰とも話さなかった僕も、周りからは家族を亡くして悲しんでいるように見えたんだろうけど。僕のはただの人見知りだ。周囲から見れば塞ぎこんでいるように見えたとき考えていたのも、”美食家”と呼ばれるなんて月山さんは本当に食へのこだわりが大きいんだなとか、そういえば月山さん本人もそんな風に名乗ってたなとか、そんなことだ。

一週間ほど施設で過ごしていると、施設の職員に呼ばれた。その職員は、施設で孤児達の身の回りの世話をしている女性の一人で、僕の担当もその人だった。老齢な彼女のしわくちゃな手に引かれ連れられていった部屋には、月山さんの家の者だって名乗る女の人がいて、「習様がご友人であるあなたを月山家に引き取られたいと仰られました」と僕に言ってきた。

「もしかして松前さんですか?」と僕が聞くと、その女性は優しく微笑んで首を横に振った。「松前は金木様をここにお迎えに参るには少々障りがございましたので、習様と共に月山邸で貴方がいらっしゃるのをお待ちしております」

ああ、もしかして、松前さんという付き人も月山さんと同じ喰種なのか。そんなことを考えているうちに、手続きが済まされ、僕は月山さんの家に正式に引き取られることになった。

「良かったわね、研君」そう言って僕を送り出した職員の女性の顔は優しさに満ちていた。この保護施設の子どもの半数以上が大人になれば喰種捜査官になり、そしてそんな彼らの多くが捜査中に命を落とすことを知っていたからだろう。僕みたいに引き取り手が現れて、喰種と関係のない世界に戻れる子どもは少なかったから、純粋に僕の幸せを喜んでいたに違いない。

 

彼女は知らなかった。

僕が喰種に食べられるために、引き取られたことを。

 

 

 

「……と、思ってたんだけどなあ」

 

僕を美味しくなるよう「飼育」するため、引き取ったんじゃなかったのかな?

何故か僕は食べられずに生きている。今じゃもう大学生だ。月山さんと同じ晴南学院大学の、文学部英文学科の一年生。

 

月山さんは、何故かは知らないけど僕を食べるのを先延ばしにしていた。

2年経った頃は「カネキくんは僕の祝福すべき20歳のディナーにしよう」。

月山さんが20歳になったときは「君が成熟しきるまで待てば更なる美味を得られるに違いない」。

そうやってずるずる先延ばして、気付けば僕が月山家に引き取られてからもう6年も経っている。

月山さんの友人(友人と言うと、月山さんはいつも「ノン!堀は友人ではなくいわばペット!愛玩動物さ!」と否定してくるけど)のホリチエさんは「大学に入れちゃったってことは月山くん、少なくともあと4年は君のこと食べるつもりないね」と言っていたから、4年間また悶々とした日々が続くんだろう。

本当は僕のことなんて食べたくないんじゃないかと疑った僕は悪くないと思う。

僕のことをいつも、君は本当に美味しそうだ、芳しいハーモニーだ、カネキくん君こそが僕の至上の”幸福”だ、とか何とか言ってるのも、本当は僕を食べる以外の別の目的のために言っているんじゃないかと勘ぐってしまうのは仕方ない。

 

竹べらでロート内を撹拌していると、やっと頭が働きだした月山さんが寝室のほうからパジャマ姿でやってきた。ダイニングテーブルの椅子を引いて座ると、頬杖をついて僕のほうをじっと見てくる。

こうしているときの彼は無声映画のワンシーンのように輝きを放っていて、ここ数年で慣れはしたものの未だに見つめられるとドキドキしてしまう。

アルコールランプを外して二回目の撹拌をしていると、月山さんが静かに口を開いた。

 

「エプロン姿のカネキくんがキッチンに立っていると、まるで新婚さんみたいだね」

 

撤回。さっきのドキドキはなしにしよう。

 

「月山さん頭ちゃんと起きてますか?どうせ昨日もまたあの悪趣味なレストランに行ってきたんでしょう?いい加減やめてくださいよ、あんな変なところに行くの」

「悪趣味とは失礼な。食を探求するものが集まる美の式典会場だよ」

「だって、”人間を誘い込んだあと本人に下準備をさせてから食べる”なんて、まるで注文の多い料理店みたいじゃないですか。それに、そんなところで出される”食事”よりも僕のほうがよっぽど美味しいですよ」

「まだまだ熟成が足りないよカネキくんは」

「へえ、そうなんですか?でもこの間リゼさんは『月山くんに喧嘩を売ると面倒そうだけど、それでも構わないくらいカネキさんって美味しそう』って言ってくれましたよ」

 

僕がリゼさんの名前を出すと、月山さんは椅子からガタリと音を立てて立ち上がった。キッチンのほうまでズンズンと歩いてくると、僕の肩を掴んで問い質してくる。

 

「なっ、神代さんに会ったのかい!?いつ、どこで!?」

「昨日の学校からの帰り道、本屋で。高槻泉の新作が出たじゃないですか。あれを買いに行ったらリゼさんがいて、『もしかして貴方が月山くんを骨抜きにしてるカネキさん?』って。凄く美味しそうな匂いがしたからすぐに分かったって言ってましたよ」

「どこも食べられてないだろうね!?」

「見れば分かるでしょう。僕は人間だからかじられるとそう簡単に治らないんですよ」

 

月山さんの目が、頭から足の先まで僕の全身を舐めるように眺めてくる。いつも左手の小指に貼られている絆創膏以外に目立った傷がないのを確認し終えたら、はあ、と深く安堵の息を吐きながら頭を僕の肩口のほうへと寄せた。

 

「……カネキくん、君はしばらく僕と共に行動したまえ」

「外ではいつも一緒に行動してるじゃないですか。あなたが食事をしに行ったり、レストランに行ったりするとき以外は」

 

僕は拗ねてる。僕を食べようとしないのに、他の人間は進んで食べようとする月山さんの矛盾した行動に。それが分かったらしい月山さんは、端整な顔に苦笑を浮かべて小さく溜息を落とした。

 

「……分かった。レストランに行くのはしばらく控えるよ。だからあまり喰種には近づかないでくれ」

「分かりました。貴方がそれを守るなら僕も喰種には出来る限り近づきません。約束ですからね?」

「約束だとも」

「守れるんですか?」

「もちろんだ。僕が君との約束を守らなかったことがあるかい?」

「はいはい。ほら、コーヒーが冷める前にせめて顔だけでも洗ってきてください。貴方は僕と違って準備に何分もかかるんですから」

 

スタイリングに何分もかける月山さんと違い、そんな髪型に頓着するわけでもないし今日着ていく服は決まっていたので、僕は準備をほとんど急ぐ必要がない。

ちなみに今日着る予定の服は、先週末買い物に出かけた時に、月山さんがブティックのウィンドウに並べられた服を見て、「カネキくん!あの服君に似合うとは思わないかい?!」と値段も気にせずそのまま買ってしまったやつだ。

月山さんと一緒に過ごしていると庶民の感覚を忘れそうになるけど、ゼロが5個も6個もついた服をポンと買ってしまうのは名家月山家の御曹司だからこそなせる技だ。僕には到底できそうにない。まあ、僕の服は全部月山さんが選んで買うから、そんなことをする必要もないんだけど。

 

キッチンからパジャマ姿の月山さんを追いだすと、コーヒーの抽出が終わる前に準備しておいた二人分のカップへさっき沸かした湯の余りを入れて、カップを温めておく。

 

「約束、ねえ」

 

あの日約束したとおり、月山さんは僕に最高の衣食住を与えてくれている。

服は月山さんが選びに選んだ上等なブランドものを買い与えられている。クローゼットの中には彼が選んだものしか入っていない。

食事は、月山さんが大学に入ってマンション暮らしを始めるまでは料理は全部月山さんの家の人間の料理人が作った栄養バランスの考えられたものを食べて、今は中学時代にその料理人に教授してもらった栄養学を生かして自分で作っている。食材は毎週送られてくる厳選されたものだ。

住む場所も、月山邸はもちろん素晴らしいところだったし、今僕ら二人で住んでいるマンションも、部屋の広さも数も申し分なし、日当たりは良好、眺めも良い、立地も良ければ交通機関へのアクセスもしやすくて、購入にいくらかかったのか知りたくもないような優良物件だ。

 

僕のいないところで、月山さんがホリチエさんに「飼ってるっていうより、束縛

の強すぎる彼氏みたいだねー」と言われたことなんて全く知らず、僕は一人溜息を吐く。

最も重要な約束が果たされていないことに、あの人は気付いていないんだろうか?

いつだったか月山さんは、「君はどうして人間なのに、僕に食べられたがるんだい。死にたがりでもあるまいし」と不思議そうに尋ねてきたことがある。僕があまりに彼に対して早く食べろと煩いので、疑問に思ったらしい。

家族となる代わりに僕を食べたいと約束した張本人からの疑問に、確か僕はその時も今と同じように溜息を吐いていた。なんて答えたかな、おそらく「僕はあなたの家族になりたいんです」とかそんなところだろう。僕の返答に納得のいかない顔を月山さんはしていたけど、それ以上聞いても自分が望む答えが返ってこないことを察してか、さらに問い詰めてくることはなかった。

 

温まったカップの湯をシンクに捨て布巾で中についた水滴を拭く頃には、ちょうど抽出が終わっていた。フラスコを軽く揺すってから、二つのカップに順にコーヒーを注いでいく。

柔らかな香ばしい匂いが白い湯気と共に渦を巻いて立ち上るのを見ながら、包丁スタンドからペティナイフを取って、絆創膏をはがした左手の小指に押し当てた。毎朝つけられる傷を押し開くだけだからそんなに力はいらない。ナイフの先が指に刺さり、ぷつりと小指の先に赤い玉が浮いてくる。その玉を一滴カップの片割れに落とし入れた。

これで、今日の隠し味も完了だ。

やっぱりこれをしないと朝が始まったという気がしない。

 

新しい絆創膏を貼り直しているうちに、顔を洗って今度こそちゃんと頭が起きている月山さんがダイニングテーブルに戻ってきた。料理に失敗して包丁で切った、傷が開いた、紙で切った、傷が開き易くなっていて、そんな言い訳を繰り返しているうちに、月山さんは僕の左手の小指に巻かれた絆創膏についてはあまり気にしなくなった。深く詮索されると隠し味が隠されなくなってしまうので、僕としてはありがたい。

座っている月山さんの前にカップとソーサーを置いてから、僕も向かいの椅子に座ってコーヒーを飲む。深煎り豆の深みのある芳醇な香りと適度な酸味が混ざりあった上品な風味、うん、今日も上手く淹れられた。

僕に倣うように、月山さんもカップを取り口を付ける。この味なら、今日もこの人は満足してくれるはずだ。こっそり様子を伺っている僕のことなど知らず、一口の黒い液体で喉を潤すと、瞳を閉じてその余韻を楽しむように押し黙った。口の端が僅かに上がっているのを見て、今日のコーヒーも彼の及第点だったことを知る。月山さんは数秒してから口を開くと、僕の方をまっすぐ見て小さく笑った。

 

「不思議だね」

「何がですか?」

 

コーヒーはいつもと変わらず、良い出来だったと思う。

 

「カネキくんが淹れてくれたコーヒーは、特別な豆を使っているわけでもないのにどこで飲むものよりもずっと美味しい。何故だろう」

 

ああ、なるほど。月山さんは隠し味が気になるのか。

 

「貴方への愛情が入ってるからですよ」

 

僕がそう言うと、月山さんは珍しく虚を衝かれたような顔をした。目を丸くして驚いた顔だって端整な顔立ちを崩すには至らないんだから、やっぱり平凡な顔立ちの僕とは違う世界の人なんだなと改めて実感する。

僕の言葉の意味を理解出来なかったのか、それとも意味は理解出来たけど突然の告白染みた発言に返す言葉がないのか。どちらでも僕は構わない。

約束が果たされれば、彼はその言葉の意味を骨の髄まで理解するだろうから。

 

「僕を食べてみれば分かりますよ、きっと」

 

僕を食べれば、隠し味が僕と同じ味だということに気付くだろう。

彼がその隠し味を美味しいと言ってくれるたび、まだ彼の家族でいる資格があると安心する。僕は、この人と家族になるために、この人に食べられようと思ったんだ。

月山さんは約束の二年が過ぎた今でも、僕を本当の家族のように扱ってくれる。

それでも、きっと本物の家族にはまだなれていない。

彼の血と僕の血が混ざり、僕らが真に同じ血を持つようになるとき。

月山さんが僕の肉の一片、骨の一欠片まで食べてくれたとき、初めて僕らは本当の「家族」になれるんだ。

 

いつかくる未来を思うと自然とこみあげてくる喜びを隠すために、僕はカップを傾けて底に残った最後の一滴を飲み干した。

 

 

 

骨まで愛して

 

 

 

月山さんが食べてくれないことでちょっとおこなカネキくんと、カネキくんどんどん美味しそうになるから食べたくないな勿体ないなーあと60年くらい待てばもっと美味しくなるかなーとか思ってる月山さん。