眠りへの恐怖が、まさか自分に再び訪れるとは思わなかった。

 以前の恐怖は、初めて屋敷を訪れた時に眠りと共に迎えられた死への、得体の知れない敵に対する不安を伴っていた。だが、今のものはただ、自分が自分でなくなることへの恐れだ。

 

 三大魔獣は討伐され、魔女教の大罪司教は打ち倒された。嫉妬の魔女の力による『死に戻り』がなくなり、王選が終わり、死の懸念が遠ざかり、全てがハッピーエンドで終わった。

 

 そうして、平穏な生活を送れるようになったスバルに訪れたのは、生死の境界が曖昧になる恐怖だった。

 それは、日常のふとした瞬間にスバルの五感を奪う。エミリアに名前を呼ばれたとき。レムに手を握られたとき。ベアトリスが服を掴んできたとき。ラムに、オットーに、ロズワールに、ガーフィールに、ペトラに、フレデリカに。世界から自分が弾き出され、生きているという感覚が奪われる。すぐさま魂を叩き起こして彼らに返事を返すが、一拍反応が遅れてしまうことが多くなった。そんなスバルに対し、彼らは「平和ボケしているんじゃないか」と笑い、その後少し真面目な顔をして「何かあれば力になる」と思い思いの言葉でスバルに言ってくれた。優しさを以て。気遣いを、心配を以て。彼らの言葉を嬉しく思うスバルは、しかし思いの丈を彼らに告げることは決してない。

 今まで死にすぎたせいだと自分では理解していて、それでも誰にも相談することはできなかった。「今まで死にすぎたせいで、自分が本当に生きているのか分からなくなりました」なんて、スバルを愛し、想い、心配してくれる彼らに言えるわけがない。

 

 世間に認められたエミリアの騎士ではあるが、何もしないのは何となく落ち着かなくて、ロズワール邸ではレムやフレデリカ、ペトラの仕事を手伝い、使用人の真似事を続けていた。

 そうやって恐怖を誤魔化し、笑いで上書きし、軽口で遠ざけている頃、レムの調理を手伝っている最中にスバルは左手に小さな傷を負った。包丁が誤って手の平に触れてしまい、浅く薄く赤い線を生み出す。手相の知能線を沿うようにして付けられたそれに血が滲み、鮮血が手の平に赤い玉を生み出す。痛みを感じるのが随分久しぶりな気がして、スバルは左手を開いては閉じ、閉じては開き、その痛みを実感する。その動作を何回か繰り返し、そういえば平穏無事な生活を送るようになってから初めて負った傷だと思い至る。血が滲み、指先や爪の間、手全体へと赤の浸食が広がるが、そんなことを今更気にするスバルではない。

 

――ああ、なるほど、俺はちゃんと生きているのか。

 

 そんな安堵が、スバルの心を満たすのにそう時間はかからなかった。

 赤い。熱い。痛い。痛いなら大丈夫。生きている証拠だ。今日もナツキ・スバルは生きている。スバルが生きているということは、スバルの周りの大切な者達も生きているということだ。誰も取り零していない。大丈夫。すべて終わったのだから、もう誰かが理不尽に命を奪われることはない。

 

 痛みが、スバルを現実へと引き戻す。

 

 レムがスバルを心配する声が耳に入った。水魔法で傷を治そうとするレムを口八丁手八丁でやんわりと止めた。この痛みは真実だ。この痛みがあれば、ナツキ・スバルは現実を見失わなくて済む。そうしてスバルは自分を救う痛みを覚え、その痛みに頼るようになった。

 手の平の傷が治りそうになれば、誰も見ていないところでその傷を抉った。血の臭いに気付かれ治癒されそうになれば話題を逸らし、誰も癒せぬよう傷を遠ざけた。

 痛覚を支えに生きるなど、正常で適正な精神をしている人間ではないと理解していた。だが、スバルの精神がまともであるなどスバルは勘違いしていなかった。かつて、墓所では『魔女』にすら歪んでいると言われた。その後多少は改善されたが、一度歪んでしまったものが元に戻るのはそう簡単なことではない。何度も何度も血反吐を吐くような思いをしながら死に、絶望し、仲間の、愛しい人達の死を見た人間が、まともな精神状況を保てるわけがない。まともでないスバルが、まともであるために、この痛みが必要なのだ。

 

 睡眠は一時的な死に似ている、などという言葉を聞けば、かつてのスバルは鼻で笑っただろう。どこが似ているものか、死はもっと抗えない恐ろしいものだ、と。

 だがしかし。死の経験が遠くなってしまった今のスバルにとって、睡眠は記憶の中にある死が訪れる時の感覚と、とてもよく似ていた。自分が自分でなくなるような、精神と身体が切り離され、身体が置き去りにされたまま、精神が遥か遠いどこかに放たれるような気分。

 ベッドにもぐり、柔らかな布団に身を沈めている時ふいに訪れる恐怖。そんな時、スバルは一緒に寝ているベアトリスを右腕で抱きしめ、そして自身の左手を強く握るのだ。眠るときも黒い手袋が取られることがなくなった左手、その手袋の下の肌は損傷して炎症を起こし、赤く腫れて化膿している。その左手を握り締めると、神経を通って激しい痛みが脳へ伝えられる。

 

――ああ、生きている。

 

 びりびりと感覚ニューロンを通して伝わる痛みだけが、今のスバルに生の安らぎを与えることができた。

 

 そうしてようやく、ナツキ・スバルは眠りに就くことができるのだ。

 

 

 

 

 

「あの無一文でリンガ買う金すらなかった兄ちゃんが、今じゃ世界の英雄なんだから、世の中っつうもんは分かんねえな」

 

 王都に訪れると、スバルは毎回カドモンの果物屋を訪れるようにしていた。セーブポイントとしていろいろ世話になった礼だ。

 王となったクルシュに何か相談事があるのだというエミリアに付き添って王都を訪れたスバルは、王城に付き添おうと思ったのだが、何故か三年以上昔のあの日と同じように、けれどあの日と違いやんわりと優しく「スバルは着いてきちゃダメ」と追い出され、一人寂しく果物屋の前でカドモンと言葉を交わしている。

 がしがしと後頭部を掻きながら、眉を顰めて話しかけてくるのは緑の髪をした強面の店主カドモンだ。世の『ナツキ・スバル』を英雄視する者達に聞かれれば顰蹙を買いかねない言葉だが、今彼の目の前にいるのは、彼の言葉に賛同する者――つまり、ナツキ・スバル本人しかいない。

 

「ほんとなあ。俺が一番不可解に思ってるわ。しっかし、おっちゃんは態度変わんねえな」

「俺たち下々の人間からしちゃ、遠すぎて逆に実感が沸かねえからな」

「俺だって下々の一員だっつうの。ちょっと魔女因子コレクターやってた時期があるだけで」

 

 スバルとて、最初から英雄になるつもりだったわけではない。スバルが好きな女の子のために頑張って、スバルのことを好きな女の子のために頑張って、そうやっていろんな人達の想いや命を、希望を、期待を背負って頑張っていたら、気が付いたらそんな肩書きが付いていたのだ。スバルが『英雄』になることで救われる命があるのなら、たとえ過大評価であろうとも、喜んでその肩書きを背負おうと思った。助けられるはずの命を助けられないなら、そんな生に意味はない。スバル自身が生き残るためではない。誰かを助けるために、常にこの命はあったのだから。

 好きな女の子を助けようとしていたら、気が付いたら魔女因子が身の内に溜まっていたり、四百年前の諸々や剣聖のあれそれや魔女教がどうこうとか嫉妬の魔女がなんだという、世界規模の問題に関わることになっていたにすぎない。

 魔女因子やコレクターなどの言葉を理解できないカドモンは、しかしその言葉に常人には分からない不穏な空気を感じ、スバルの言葉に曖昧に笑いながら、横にあった籠から赤い果実を一つ手に取る。

 

「で、どうせ今日もリンガだろ? 今は一個で銅貨二枚だぞ」

「俺がいつもリンガばっかり買ってるみたいな言い方しないでくれる? まあ今日もリンガなんだけどさ」

 

 六個買おうと思い、スバルは上着の右ポケットから財布を取りだす。今日の交換比率は銀貨一枚で銅貨九枚だったはずだ。銀貨一枚と銅貨三枚を出そうとしたところで、左横からスバルを呼ぶ美麗な声がした。

 

「スバル?」

 

 振り返るように身体を向ければ、そこにいたのは仕立ての良さそうな白いシャツと黒いスラックスを纏った『最優の騎士』ユリウス・ユークリウスだった。王選が終わり、アナスタシアに騎士の任を解かれた彼は、元いた近衛騎士団の二番手に戻っているはずだ。となれば、汚れが目立ちそうな白い騎士服ではなく私服で街に下りているなら、仕事ではないだろう。

 

「ユリウスも買い物か? お前も市場になんて用事あるんだな」

「私とて買い物くらいするのは君も知っているだろう。今日の要件はただの受け取りだがね」

「何か注文でもしてたのか?」

「ああ、父が……亡父が使っていた装飾品がこの間見つかってね。私が使おうと思いサイズを直してもらったんだ」

 

 どうやら、受け取りは既に済んだ後らしい。ユリウスの左手には小さな紙袋がぶら下がっていた。

 

「ところで、今日はエミリア様がクルシュ様と会われると聞いていたが……スバルはエミリア様の傍にいなくても良いのか?」

「それ、宿屋でエミリアたんに追い払われた俺に言う? 『今日はお休み! 護衛はレムに任せるからスバルは王都を楽しんでて!』って可愛い顔で一時間前に言われましたぁ」

 

 不満を言いながらも、以前のように王城に突撃しようなどとという暴挙は犯さない。今のスバルならば王城など顔パスだが、エミリアの言葉の勢いに思わず頷いてしまい、その結果言質を取られて「エミリアたんとレムが戻ってくるまで久しぶりの王都を楽しんでいます」という約束をしてしまった。いつもならスバルに付き添うレムも、心配そうな顔をしながらも何故か今回はスバルを置いて王城に行ってしまった。

 エミリアやレムとの約束を破るわけにも行かず、かと言って一人で回るのも寂しいため、こうして顔馴染みのところを回っているのだ。次はいつだったかの周回でアナスタシアに辛酸を舐めさせられた食堂にでも行ってみようと思っている。ちなみに相棒のベアトリスは宿屋でお昼寝中だ。スバルが呼べばすぐ来てくれるだろうが、「もう食べられないのよスバル……」などとむにゃむにゃ寝言を言いながら、幸せそうに眠る幼女をわざわざ起こして連れ回すつもりはなかった。

 膨れ面をしてそっぽを向いたスバルの横顔を見て、怪訝そうな色を浮かべていたユリウスは、納得した顔で頷く。

 

「エミリア様が君を遠ざけるなど、普段ならば考えられないが……今の君を見ると、エミリア様がそのように判断されるのも道理だろうね」

「ああ? なんでだよ」

「あまり顔色が良くない。最後に会った時より頬も少し痩せている。エミリア様が君に休息を取らせたのも、君を気遣ってのことだろう」

 

 愁いを含んだ顔で、ユリウスはスバルの輪郭へ手を伸ばした。白い手袋に覆われていない手が、スバルの頬に触れる。肌を掠める指先は、温もりとも言えないほどの淡い温度をスバルに分け与えた。

 

「用件も恐らく……いや、確証のないことを言うべきではないね」

 

 目尻から頬、唇の端を通り顎まで至った指が、名残惜しそうにスバルの肌から離れていく。ユリウスは黄の瞳を細め、推測を口にしかけるが、途中でやめて唇を緩く結んでしまった。それが気にくわないのはスバルだ。相変わらず膨れ面をしながらも顔を正面へ戻す。

 

「クルシュさんに相談事がって言ってたけど、俺が分からない用件をなんでお前が分かるんだよ」

「私もまた、エミリア様やレム嬢と同じ気持ちだからだな。昨日会った時、フェリスやラインハルト、ヴィルヘルム様もクルシュ様に呼ばれたと言っていたのだが、恐らくその相談事の関係だろうね。私が呼ばれなかったのは、ちょうど今日が非番だったから、だと思いたいな」

「その面子がいてほしい相談事って相当じゃん……。それに呼ばれないの、俺としてはかなり不服なんだけど」

「だろうね。私もだ。だが、エミリア様は君のためにならないことはしない。君は君の主を信じて待てば良い」

 

 形の良い唇が笑みを作ることで、美丈夫の月影のような端正な容貌が、途端に華やかなものになる。慈しむような色を融かした琥珀の双眸に、スバルの息がぐっと詰まった。いつからか、ユリウスはスバルに対してこんな目を向けてくるようになった。愛しくて堪らない、とでも言いたいような目だ。短くない付き合いから、分かりにくい優しさを持つ情に厚い青年だと分かっているが、親愛の情もここまで来ると少々気恥ずかしい。

 

「で、兄ちゃん、リンガは買うのか?」

「あ、悪い」

 

 ユリウスに会ったことで中断していたが、そういえばリンガを買おうとしていたところだったと思い出す。

 スバルは再びカドモンの方を向いた。右手で赤い果実を差し出すその姿に、脳が不具合を起こす。今日も突然やってきた五感を奪われるような感覚に耐えようとした、が。

 

――ああ、駄目だ。今回は重い。

 

 息が詰まる。ぐわりと現実が遠ざかり、視界が歪む。足元の感覚がなくなり地面が揺らぎ、脳がフラッシュバックを起こす。

 温かな鮮血の海に沈む自分の身体。床に倒れる銀髪の少女。腹を裂かれる感覚。暗い廊下を追いかけてくる足音。身の内から食われる恐怖。暗い森を追いかけてくる鎖の音。山のように積まれた真っ黒な死体。孤独の中、裏路地で倒れ伏す身体。命尽きた腕の中の青髪の少女。白銀の世界で嗤う自分の姿。生きながらにして焼かれる喪失感。

 気持ちが悪い。気分が悪い。胃の中がかき混ぜられるような感覚があるのに、それすら自分の体ではないどこか遠くのところで起こっていることのようだ。

 俯いて、奥歯を噛みしめて。ぎゅう、と左手で拳を作った。

 いつもなら刺すような痛みがあるのに、今はその痛みすらどこか遠い。フラッシュバックは止まらない。痛みが足りないのならば、さらに深く傷つければ良い。傷を握りこむだけでは足りなくて、右手も使って布の下の傷を抉った。布越しに感じる爪の感触に、化膿した傷が警告を発する。痛覚がやっと仕事をし始め、脳が警告を受け止めた。

 

――痛い、痛い。大丈夫、痛いなら大丈夫だ。痛みを感じられるのなら生きている。俺が生きているなら、みんなも生きてる。誰も取り零していない。ちゃんと、生きている。

 

 ずきずきと頭が痛み、足元で地面を踏みしめる感覚が戻ってくる。手足に血が通っている流れがあった。ぐらぐらと揺れていた視界が、次第に焦点のあったまともなものへと戻っていく。

 

「――いちゃん。兄ちゃん、大丈夫か」

 

 掛けられた声に、顔を上げた。顔に大きな傷跡の残る男が、スバルを睨むような目で見ていた。が、それなりの付き合いから、睨んでいると思うのは男の強面がそう感じさせているだけで、実際はお得意様を心配しているものなのだと理解できた。理解できたのは、スバルの思考が正常に戻ってきた証だった。

 

「だ、いじょうぶ。最近ちょっと寝不足気味なせいか、日中眩暈がすることが多くてさ」

「おいおい、人の店の前でぶっ倒れないでくれよ」

「心配どうも。そう簡単にぶっ倒れるようなひ弱な体してないから大丈夫だって。あ、リンガ六個ちょうだい」

 

 左手の傷を抉っていた右手を何でもなかったように離す。いつも通り笑って、先程出しそこねた財布をポケットから出そうとしたところで、左手首を掴む腕があった。ユリウスが、険しい顔でスバルを見ていた。

 

「すまない、いずれ日を改めて私が買いに来よう。今日はこのあたりで失礼させてもらう」

「あ、おい、ちょっと!」

 

 スバルが口を挟むが、カドモンは手の中のリンガを籠に戻し、ユリウスの言葉を肩を竦めて受け入れた。

 

「あいよ。今後とも御贔屓に」

「感謝する」

 

 スバルの様子がおかしいことに詮索を入れず、そのまま見送ってくれたカドモンに礼を言うと、ユリウスはスバルの手首を掴んだまま歩きだしてしまった。

 

 

 

 

 

 訳の分からないまま手を引かれ、早足で緩やかな斜面を上り、雑踏を進んでいく。いつかの時とは立場も進む方向も逆だな、と己の前を行く紫髪の青年の背中を見ながら思った。

 

「ユリウス、何だっていうんだよ!」

 

 あまり目立ちたくなかったため、何度も小さく声をかけていたが、青年は振り返ることも立ち止まることもしなかった。何分か歩き続けて人通りが少なくなったあたりで、今度は周りから注目を浴びるのも気にせずに青年の名前を呼んだ。

 やっとユリウスはスバルの方を振り返るが、戸惑うスバルを流し見たかと思うとすぐに視線を外してしまう。「歩きで王城は遠いな」と苦々しく呟いたかと思うと、掴んだままのスバルの腕を引いて、通りよりもさらに人通りの少ない路地へと入ってしまった。

 

 人気のない薄暗い路地の中でユリウスが立ち止まったことで、やっとスバルはユリウスの顔を見ることが出来た。向き合った顔は、果物屋の前から立ち去った時と変わらぬ嶮しさでスバルを見返してくる。掴まれた左手が酷く痛んで、痛みに歪む顔を隠すように下を向いた。

 一度深く呼吸をしたユリウスが、琥珀の視線で俯くスバルを射抜いて、手首を返した。その動きに合わせて、掴まれていた左手も手の平を上に向けるような形になる。

 

「スバル、以前の君はこのような手袋などしていなかったはずだ。何故わざわざ左手だけ手袋をしている?」

「……ちょっと、怪我したんだよ。見た目悪いから人に見せるのもあれだと思って」

 

 嘘は言っていない。真実のほんの一部を口にしただけだ。

 ユリウスにはクルシュのような加護はないのでうまく嘘を吐けばバレない。が、今のこの状況からして、こんな言葉では言い逃れできないことは分かっていた。

 

「そうか、なら私が治療しても構わないな?」

 

 ほら、やっぱり。思っていた通りの言葉が返って来た。スバルがあまりにも自分が傷を負うことに頓着しないため、いつの間にか周囲はスバルか怪我をしているのを見つけるとすぐ治そうとしてくるようになった。目の前の男もその中の一人だ。

 だが、それは困る。治されることがないように、わざわざ手袋なんて着けて隠しているというのに。

 

「必要ない」

「何故だ」

「……治したく、ないから」

「その治したくない理由を言ってもらえれば、私だって無理は言わないよ」

 

 その言葉を裏付けるように、先程からユリウスは全く声を荒立てていない。スバルに余計な刺激を与えないよう、過度な圧力をかけないように、平時よりも穏やかな声音で話しかけてくる。

 突然腕を掴まれたことで薄々気付いてはいたが、開口一番に左手のことを話題に出されれば、スバルの様子の異様さがユリウスにもバレてしまったことは当然分かった。

 ユリウスの問いかけに黙っていると、ぐっと左手首を掴む力が強まった。締め付けられる痛みに反射的に「離せ!」と言って腕を引くが、言葉通りに離されることはない。それどころか、紙袋を提げたユリウスの左手がスバルの右手に重ねられ、ユリウスは今のスバルが最も恐れることを言ってきた。

 

「スバル、手を見せるんだ」

「は、なせ! やめろっつってんだろ!」

「スバル」

 

 様子のおかしいスバルを刺激しないよう、精一杯心を砕いてくれていることが、声の調子から受け取れた。それでも、スバルの心を守っていた黒い膜は問答無用で剥ぎ取られた。

 手袋の下から現れた傷に、ユリウスの纏う空気が剣呑なものになるのが分かった。俯いて靴の爪先を見つめるスバルからは傷は見えないが、どんなものが路地裏の暗い光の下に晒されたかはよく知っている。

 最初は浅い切り傷だったはずだ。血が滲むが、適切な処置をすれば数日で塞がるような、水魔法による治癒すら必要ない浅く薄く赤い線。しかしそれは治癒する前に掻かれ、爪で抉られることで深さを増し、ところどころが黄色く膿んだ赤く醜い肉を露わにしていた。

 まともな治療の跡すらない、明らかな意思を持って放置された傷口を見て、この美丈夫は何を思っただろうか。どんな顔をしているのか確認するのが怖くて、頭を押さえつけられているように息苦しくて、ますます顔があげられなくなる。

 息を吸う音に肩が強張った。酸素を求めるのは、言葉を紡ぐ前段階だ。そして、二酸化炭素と共に、言葉が紡がれた。

 

「スバル、何故このようなことを……」

 

 その心配そうな声に失望の色が混ざっていないことに、スバルは安堵してしまった。安堵した自分に、失望した。

 エミリア達にも誰にも言わなかったのは、彼女達に失望されることを恐れていたからだと気付かされたから。

 今更、皆がスバルのこの程度の弱さを知ったくらいで失望するわけがない。それほどに仲間からの信頼は厚く、親愛は深いものだった。それなのに、未だにそれを信じきれていない自分がいた。そんな心の弱さに気付かされてしまった。

 いつまで経っても、自分は弱いままだ。

 

「私は君の醜態を最も間近で見ていた一人だ。今更何を取り繕う必要がある」

 

 スバルの沈黙を、問いからの逃げだと思ったのだろう。ユリウスがそんなことを言ってきた。

 流石にもう夢には見なくなったが、未だ苦々しい記憶としてスバルの心の中に残っている王選の場や練兵場の出来事を、スバルが明らかに弱っている今この場で口にするのか。ふ、と視線を上げて真正面に立っている男の顔を伺う。金色の瞳がスバルを見ていた。

 射抜くような目に、へにゃりと下手くそに笑って、スバルは口を開く。

 

「お前、三年経ってもその話持ち出すのかよ……」

「弱さから目を逸らすのは、君の性分ではないだろう」

 

 柔らかな金色をした双眸は眼差しで訴え、薄紅色の唇は言葉で訴えてくる。今までだって何度も向き合わされた弱さを、また直視しろと。今まさに、自分の心の弱さを思い知ったスバルに、そんなことを言ってくるのだ。

 強張っていた肩の力が、抜けていく。

 横の壁にもたれかかると、ずるずると重力に従い腰は下へ落ちていった。しゃがみこむような姿勢になる頃には掴まれた左手は離されていたので、力の入っていない手はそのままぺたりと地面に落ちてしまう。醜い傷のついた手の平が上を向いたことで、薄い光に瑕が晒される。

 

「……王選が終わってから、初めて出来た傷なんだ」

 

 ああ、何を正直に話してるんだろう自分は。彼にだけは、絶対に弱っているところを見せたくなかったのに。

 そう思うのに、口は勝手に開いて言葉を紡ぐ。

 

「生きてるのか、分かんなくなるんだよ」

 

 一つ言葉に出してしまえば、あとは箍が外れたように溢れ出す。誰にも言いたくなかったことを目の前の男に言うのは業腹だった。この男にだけは、心の弱さを見せたくなかった。それなのに、溢れ出した言葉は止まらない。

 

「もしかしたら、俺は初めてこの国に来たときに死んでて、今までのこと全部、死にかけの俺が見てる夢なんじゃないかって」

 

 ユリウスから隠すように、手袋を剥がれ傷口が露わになった左手を握れば、刺すような痛みがあった。

 

「もしかしたら、魔女教にどっかで殺されてるんじゃないか。クルシュさんが王になったのも夢で、……そもそも、俺はエミリアの騎士でも何でもなくて、何にも持ってない、ただ馬鹿をやるしかできないだけの、何もできない、何もしてこなかった俺のままじゃないのか? いや、そもそも、俺は本当に生きてるのか?」

 

 薄く手を開き、右手で醜い傷を撫でた。じくじくと痛むそれは、生の証明をスバルに示してくれる。

 

「安心、できるんだ。全部終わった後についた傷だって知ってるから。この傷が痛いなら、全部終わったのも現実なんだって実感できる。……笑いたかったら、笑えよ」

 

 しゃがみこんで膝を抱え、頭を埋めて弱音を吐く姿は、端から見れば子ども同然だろう。当に成人した大人が恥ずかしいにも程がある。今のスバルは、ユリウスからどう見えているだろうか。世間では英雄だなんだと言われているが、どれだけ功績を残そうとも、スバルの根っこの弱さは変わらない。嗤われても仕方のない姿を見せている自覚はあった。

 

「――笑わないさ。若い騎士の中にも、戦場で強い精神的外傷を受けたために戦いが終わっても苦しみ続け、騎士を続けられなくなる者がいる。……私は君の強さを知っている。だが、君を強いとは思っていないよ」

 

 だが、ユリウスから返って来たのは、スバルの弱さを肯定するような言葉だった。

 膝に埋めていた顔を、ゆるゆると上げる。

 

「たった三年だ。三大魔獣の討伐、魔女教の殲滅、嫉妬の魔女の討滅。それがたったの三年で為された。四百年間世界を苦しめてきたそれらの脅威の撃破全てに関わり、全てにおいて最前線で戦い続けた君の心に、君しか知らぬ傷が残っていたとして、誰にもそれを笑う権利などない」

 

 ああ、確かに激動と言って良い三年間だった。王選が終わってから、スバルの周囲はひどく平和になった。意識しないように目を背けていた傷が、平和を取り戻したことにより、思い出したように血を流し始めてしまったのだ。

 スバルの感じている痛みが伝播したかのように、スバルを見下ろす美丈夫は痛みを耐えるような顔をしていた。服が汚れることも気にせず彼は片膝を地面に着くと、スバルが握りしめていた左手を取り、両手を重ねる。視線の高さが同じになったことで近くなった顔が、真っ直ぐにスバルを見ていた。

 

「頼れば良い。エミリア様やレム嬢やベアトリス様が頼れないのなら、オットーでもガーフィールでも良い。エミリア様の陣営の者達に話せない内容なら、ラインハルトやフェリスやヴィルヘルム様に。必ず誰かが君の助けになるだろう」

「……ユリウスは、どうなんだ」

「もちろん、私も。君が望むのなら、我が身の全てで君を助けよう」

 

 肝心の目の前の男の名前が出てこなかったことを指摘すると、ユリウスの頬が優しく緩んだ。さらりと紫の髪が揺れ、金色の瞳は柔らかく細まり、唇は淡く綺麗な弧を描いている。

 薄暗い路地裏が荘厳な教会に、表の通りからほんの僅かに入る光がステンドグラスから差し込む光に見えるような、そんな美しく優しい笑みだった。

 

「スバル」

 

 思わず今の状況も忘れて見惚れていると、涼やかな声に名前を呼ばれた。愛おしい相手を呼ぶような響きに、胸が苦しくなる。

 

「三大魔獣は死に、魔女教も殲滅された。クルシュ様が王となり、君は変わらずエミリア様のただ一人の騎士だ。君は生きているよ、スバル」

 

 言葉と共に、触れられた左手が暖かくなる。痛みが引いていくことで、ユリウスが水魔法を使い傷を治療しているのだと分かった。傷が失われていく恐怖に震え、視界が歪み足元の感覚がなくなりそうになるスバルを、ユリウスの右手がこの場に繋ぎとめていた。

 

「区切りが必要ならば、痛みではなく今この時、私の言葉を区切りにすれば良い。父の指輪に掛けて誓おう。我が友、ナツキ・スバル。君に何かあれば、私ユリウス・ユークリウスは何時如何なる時でも、この身の全霊を持って君を助けると」

 

 誓いが告げられると共に何かがスバルの指に触れた。握られている左手を見れば、左から二番目の指の根元に、金色の光が宿っていた。

 

 こちらの世界では、指輪はただの装飾品だ。スバルの世界と同じように、自らの裕福さや権勢、身分の高さを知らしめる目的で高価な宝石の嵌まった指輪を付けることもあるようだが、所詮着飾る以上の意味を指輪に持たせることはない。

 だから、填める指に意味などないし、そこがスバルの生まれ育った世界でどんな意味を持つかも知らないユリウスが、スバルの左手の薬指に填めたことにも、もちろん何の意味もない。ちょうどユリウスの持っていた物がスバルの薬指に合いそうなサイズで、ちょうどその時ユリウスが掴んでいたスバルの手が左手だった。ただそれだけの話だ。

 

 スバルの前で膝をつき、左手を取って見つめてくるユリウスの真剣な顔を見上げ、その横に置かれた紙袋を見、最後に自身の左手を見る。

 なるほど、市場でユリウスが言っていた、サイズ直しをしてもらった装飾品とは指輪のことだったのだろう。ユリウスの左手にぶら下がっていたはずの紙袋は地面に置かれていた。恐らく、スバルがユリウスを見て惚けている間に中身を取り出したのだ。

 手を引けば、重ねられていた手が離される。顔の前に翳すと、光を受けてきらりと輝いた。薄暗い路地でも、シンプルな意匠をした指輪の美しさは損なわれない。

 

「病めるときも健やかなるときも、ってか? は、笑えねえな」

 

 何より笑えないのは、ユリウスの言葉と共に贈られたその行いに、心が震えるほどの喜びを覚えているスバル自身の心だった。

 冷たかった金属が体温に馴染むほどに、先程のユリウスの言葉が心に染み込んでいく。薬指の付け根にある違和感が嬉しい。気付きたくなかった気持ちに、また一つ気付かされてしまった。

 

「お前さあ……人が最高に弱ってるときに優しくするの、やめろよ。俺に惚れられても文句言えないぞ?」

 

 力なく告げられるスバルの言葉に、ユリウスの目が瞬かれる。呆れるように小さく溜息が吐かれ、緩く結んだ唇が苦笑の形を作った。

 

「スバル、そのようなことを軽々しく言うべきではない。私のような者が期待してしまうからね」

「何を期待するんだよ。俺が返せるもんなんて何もないぞ」

「何かを返してもらおうなどと贅沢なことは考えていないよ。私は既に、君に過分なまでの幸福を与えられているのだから」

 

 ああ、そんな顔をしてそんなことを言わないでほしい。勘違いしてしまいそうになる。目の前にいる、非の打ち所のない美丈夫が自分を愛しているんじゃないか、なんて。そんな不相応にも程がある勘違いを。

 スバルの苦悩も知らず、ユリウスは微笑んでいた顔を一転し困ったような表情を浮かべ、スバルの手を取って首を傾ける。

 

「分かりやすく形に残るものとして、今持っていたのがこれしかなかったのだが……」

「これで良い。……これが、良い」

「そうか。だが、外したいなら、外してくれて構わないよ」

「指輪に掛けて誓ってくれるんだろ? だったらこのままで良い。……なあ、もう一個持ってるか?」

「ああ、元々二つ一組で使うもののようだからね」

 

 市場の会話では、二つあるような口振りだった。そう思い尋ねれば頷かれ、指輪の填まった左手を差し出せば、灰色のビロード地のリングケースが手の平に乗せられた。開けると、その中には確かに、スバルの指にあるものと対を為すような装飾が縁に施された指輪が鎮座していた。

 それを取り出し左手に持つと、今度は右手を前に出す。

 

「手、貸して」

 

 右手が乗せられたので、「違う、こっち」と言ってユリウスの左手を取った。先程されたのと同じように、すらりとした薬指に指輪を通す。

 

「俺も誓うよ、ちゃんとお前のこと頼るって。だから、お前が繋ぎ留めといてくれよ」

 

 自分のような存在を友と呼んでくれた彼への裏切りだと分かっている。だが、誰にも分からないのだから、今更気付いたこの想いを誰にも告げるつもりはないのだから、これくらい許されてほしい。

 「ああ、もちろんだとも」と微笑む青年の顔に、路地裏に入ったときに見せていたような剣呑さはない。少なくとも、対の指輪を付けることは許されたのだ。そこに深い意味など伴わなくて良い。スバルには、それだけで十分だった。

 

「ていうか、俺達いつまでこんな路地裏でしゃがみこんでるんだ」

「君に目線を合わせた結果だ」

 

 薄汚い路地裏でも、立ち上がる様は優雅だった。

 差し出される左手に、スバルは己の左手を重ねる。互いの薬指に嵌まる金属が、僅かに差し込む光を反射してきらりと光った。

 

 

 

柔らかな幸福は金の色をしていた

 

 

「ただいま、スバル」

「ただいま帰りました、スバルくん」

「あ、エミリアたん、レム、おかえり~」

「……」

「……」

「お、おかえり……。どうしたの、二人とも黙っちゃって」

「……ねえスバル、誰かに会った?」

「あー……ユリウスに、会ったよ。でもなんで?」

「ユリウス様以外には?」

「あいつ以外だと、果物屋のおっちゃんくらいしか会ってないけど……」

「本当に?」

「本当に。なんで二人してそんなぐいぐい聞いてくんの……?」

「……ううん、なんでもない。そう、ユリウス、ユリウスね。ふふ、妬けちゃうな」

「えっ、なに、エミリアたん、もしかしてユリウスに会いたかった!? 今回の用件ももしかしてユリウス関係だったとか!?」

「もう、違うわよ! スバルのおたんこなす!」

「おたんこなすってきょうびきかねな……」

「レムはスバルくんの鈍感なところも素敵だと思いますけど、今回はスバルくんが悪いと思います」

「やばい、何故か俺への評価が下がってる。あー、あっ、ところで、エミリアたんの心配事は解決した? 二人とも王城行く前に比べて、だいぶすっきりした顔してるみたいけど」

「あ、うん、クルシュさん達に相談したいことがあったんだけど……大丈夫だったみたい。もっと早く王都に来てれば良かった。ね、スバル」

「ふうん? まあ、解決したなら良かったよ。エミリアたんは、笑ってるのが一番可愛いからな!」

「……そうね。私も、元気に笑ってるのが、一番素敵だと思うわ」

 

 

 

自分が生きてるのか死んでるのか分かんなくなって自傷するスバルくん可愛いよね、って話をしたかったんだけど、気付いたらユリスバが結婚してた……。おかしいな……。

 

どれだけハッピーエンドで終わろうとも、それはスバルの死体の上に成り立っているんだと思うとリゼロの闇は深い。

 

この後アル経由でプリシラに「揃いの指輪を左手の薬指に嵌めるのは夫婦者の証だと、アルが言うておったが?」って言われてなんやかんやあってユリスバはくっつきます。