己の力が及ばなかったために、大罪司教に名前を食われ、主も、戦友も、友も、精霊達も、世界の全てが『ユリウス・ユークリウス』を忘れたと思っていた。そんな時に、いつもと全く変わらない口調と声音で、苦言を呈しながらも親しげに声を掛けてきたスバルにユリウスの心がどれほど救われたか、彼はきっと知らないだろう。
胸に灯った小さな希望を肯定するように、彼ははっきりとユリウスを『最優の騎士』と呼び、「ユリウス・ユークリウス」と名前を口にした。全てが失われてしまったのではないかと思っていたユリウスを、スバルが繋ぎ留めてくれたのだ。
期待はしていた。彼が『暴食』の被害に遭った者達を唯一覚えている存在だということは、ユリウスも知っていたから。だが彼が世界でたった一人の例外であるように、その時のユリウスもまた例外であることを、自身の陥った状況に混乱しながらも理解していた。暴食に『記憶』を食われた人間は、自らの記憶を失う。『名前』を食われた人間は、周囲から忘れられる。ユリウスが知る『暴食』の被害者は、記憶を失ったクルシュ・カルステンと、意識を奪われたエミリア陣営に属するレムという少女だけだが、『暴食』被害者として典型的な状態である彼女達とユリウスの状態は明らかに異なっていた。『暴食』に『名前』を食われ周囲から忘れられながらも、意識を保ったままだった。スバルが被害者を覚えていられる異質であったように、ユリウスがスバルに覚えていてもらえない異例であっても、何もおかしなことはない。だからあの時ユリウスは、自分を見るスバルから逃げたのだ。最後の希望が失われることを恐れて、彼すら自分に対して他人を見る目を向けてくることを怖がって、言葉を交わすことすら拒絶した。
そんなユリウスを腹立たしげに追いかけてきたスバルが掛けてきた言葉を最初は、攻防戦において尋常ではない被害を受けている人々に手も貸さず、目的もなさそうに歩いている男に対して、文句でも言いに来たのだろうと思った。だから社交辞令的な言い訳をして立ち去ろうとするユリウスに、スバルはアナスタシアの名前を出し、「らしくない」とまるで普段のユリウスを知っているかのような口振りで話しかけてきた。息を呑み、期待した。まさか、と。まさか、彼はユリウスのことも覚えているのだろうか、と。だからスバルの名を口にし、おずおずと期待と不安で揺れる心を鎮めながら、問いを投げかけた。スバルはユリウスを覚えているという言葉が欲しかったが、彼は問いの意味すら理解しないまま「『最優の騎士』ユリウス・ユークリウス」と、ユリウスが最も求めていた答えを紡いでくれた。
大罪司教『怠惰』を討伐した共同戦線で、スバルがユリウスへ告げた言葉は忘れていない。己が目指す騎士であろうと研鑽を積んできたユリウスの強さを彼が認めてくれたのだ。忘れるわけがない。
だからこそスバルの目の前では弱さを見せたくはなかった。そんなユリウスの強がりには気付かないのに、ほんの少し弱さを見せれば、ユリウスの強さを認める言葉をぶつけてくるのだから恐れ入る。
――忘れたのか、ユリウス。いや、忘れるな、ユリウス。お前の強さは俺の目が知ってる。俺の恥が知ってる。誰が忘れたとしてもだ。
そんな言葉を言われて、弱くいられるわけがない。他の誰でもない、ナツキ・スバルという友に言われたのなら尚更だ。全てがユリウスを置き去りにしてしまったと思ってしまった。積み重ねてきた友や主君、戦友達との関係性も、準精霊達との絆も失われたと思っていた。だがユリウスとスバルの関係は失われず、彼がそう言ってくれたから、ユリウスは唯一自分の中に残っていた『強さ』を失わずに済んだ。剣技を叩き込んだ師だってユリウスを覚えていないだろうが、師に教わって今まで磨き続けてきた戦い方や剣技は確かにユリウスの中に残っていた。
その『強さ』だけは失わないでいようと。多くを失った手の中で、ただ一つ残った『強さ』を持ち続けていれば、それがこの身を支え、いずれはまた多くを取り戻すことが出来るのではないかと。そう思い、変わらず剣を握ってきた。剣があれば、アナスタシアを支えられる強さを、スバルが認めてくれた強さを証明できると信じてきた。
水門都市でスバルに救われておきながら、塔の中でユリウスはまだ何も彼の役に立てていない。尽くすべき主君が、ユリウスを助けようとして倒れた。ただの棒切れ二本に、ユリウスの今までの人生が踏みにじられ、その戦いの末にユリウスと共に在り続けた剣が折れた。
それでも、戦わなければならなかった。今の自分が持つ唯一を失ってしまったら、自分は何者でもなくなってしまう気がしたから。
だというのに。
ユリウスを、騎士ユリウス・ユークリウスであると言ったスバルの目の前で、圧倒的な強者に一度ならず二度までも倒された自分は一体何者だというのか。スバルの目がユリウスの強さを知っているなら、彼の目に己が弱さを見せてしまったユリウスに、一体何が残されている。
悲壮感に満ちた声で叫ばれた名前さえ、きっともう、ユリウスのものではなくなってしまったのだ。
紫のフリージアは手折られた
紫のフリージアの花言葉は「憧れ」