スバルへの好感度MAXユリウスに介錯追体験させてみたいよね!っていう欲望によって書かれたユリスバ。王選後捏造で王様はクルシュ様。不眠気味弱りユリウス。スバルは凄く元気

 

 

 

 暗く粗末な建物の中で、赤い水たまりに男がうつ伏せに倒れている。少年と言い換えても何ら問題ない年嵩の男の命が失われていく姿に、ひどく心が掻き乱された。ああ、少年の右手を握っている少女の銀髪を染める赤は、どちらの血だろうか。

 

 横倒しになりながらも、動きを止めようとするかのように少年は誰かの足首を掴んでいる。服装から、生命が終わりかけているその少年が、先程見た光景の少年と同一人物だと気が付いた。とめどなく溢れる血が、彼の命の刻限を示していた。

 

 人気のない路地裏で、またも少年が血だまりの中に倒れていた。少年の身体から赤い血が流れ出す。命が零れ落ちていく。三人の男が彼を囲んでいる様子から、彼らの誰かが少年を刺したか何かしたのだろうことが伺い知れた。仰向けになり、苦しむ少年の顔が、やけに見覚えのあるものだと気が付く。

 

 いつも強い光を宿している黒い瞳から、光が失われていくのを止める術を今のユリウスは持ち合わせていない。

 目を逸らしたくとも、肝心の眼球を持っていない。耳を塞ぎたくとも、塞がれる耳がない。助けるためにと伸ばす手も、制止を懇願する声も持たない。世界の一部になったような感覚を持ったまま、友が――ナツキ・スバルが殺されていく様を、ユリウスはずっと見ていた。

 

 やめろ。

 やめてくれ。

 彼が何をしたと言うんだ。

 何故彼ばかりが死ななければいけない。 

 

 あまりにも酷い悪夢だ。第一印象では多少思うところもあったが、ユリウスがスバルのことを侮っていたのはほんの数日間だけだ。ほんの数日で、王城で大言壮語を吐いたスバルは、その醜態を覆す以上の偉業を成し遂げた。

 

 眠る彼の命が静かに失われていくのを見ているしかなかった。

 呪いで苦しむ彼が、腕をもがれ、頭蓋が砕かれるのを見た。

 拷問の末に喉を切り裂かれる様を。

 自ら崖へと飛び込む姿を。

 氷の世界で息絶える身体を。

 

 ぱちんと視点が切り変わる。

 目の前に彼がいた。彼に寄り添う漆黒の地竜がいた。隣に友人がいた。後ろにいるのは、友の祖父だ。先ほどまでの光景とは、明らかに置かれている状態が違う。

 世界を見る目があった。

 重く苦しい空気を吸う口があった。

 剣を握る手があった。

 命を奪えと、懇願する声を聞く耳があった。

 

「いずれ、罰を受けるだろう」

 

 剣も持つ右手が僅かに上げられ、そのまま剣先が白い首筋に添えられた。手入れを怠らない鋼はただ置かれただけで、スバルの首の薄皮を裂き、一筋の赤い線を作り出す。その痛みに反応するように苦痛い堪えていたスバルの顔が、ふいに和らぐ。浮かべられる安堵に、背筋が粟立った。

 

 何故そんな顔をする。

 君は今から死ぬんだぞ。

 君は死ぬ。私が殺す。

 嫌だ。やめろ。何故この手は思うように動かない。

 殺すな。殺さないでくれ。殺させないでくれ。

 

 血を吐くような必死の願いも虚しく、右腕は剣は振りかぶる。

 剣を通して、肉を裂き、骨を断つ感触が伝わってくる。生温い赤いものがユリウスの剣を、頬を、腕を、服を濡らす。

 

 そこで、思考は途切れた。

 

 

 

 

 

「ユリウス、酷い顔色してること分かってる?」

 

 王城内に併設されている騎士や兵士が使う食堂で昼食を摂ろうとしていたユリウスに、後ろから声が掛けられる。緩慢な動作で振り返ると、そこにはフェリスとラインハルトが立っていた。ラインハルトはいつも通りだがどこか心配そうな、フェリスの方はあからさまに難しげな表情をしていた。

 

「……分かるか」

「そりゃ、ネ。プリステラの時だってもうちょっとマシだったよ」

 

 ユリウスの名が『暴食』に食われた後のことを言っているのだろう。あの時スバルに会うまでに味わった絶望と空虚は、ユリウスが今までの人生で経験したものの中でも上位に食い込む程だったが、あの時よりも酷い顔をしているというのなら相当だ。それほど近頃見る夢が、ユリウスの心身に影響を与えているということだ。

 

「体調が良くないのかい。それとも、何か気がかりが?」

「いや、最近あまり眠れなくてね。それだけだよ。出来る限り体は休めるようにしているのだが」

「眠れないことは、それだけとは言えないと思うけど」

「いくらユリウスでも、睡眠を摂らないことには精神は休まらにゃいよ。食事はちゃんと摂ってる?」

「今まさに食べようとしていたところだよ」

 

 二人して真剣な顔で子どもを心配するように「ちゃんと寝ろ」「ちゃんと食べてるか」と言ってくるので、何だかおかしくなってしまい、結んでいた唇が自然と緩み口角が上がる。ユリウスの微笑にも届かないような小さな笑みに、フェリスは僅かに安堵の表情を見せると「食事は後回し」と言って、食堂の隅にある丸机を指差す。四人掛けのそこは入り口から最も遠く、観葉植物などの配置の関係で他の席からは様子が見えづらいため、人目のある場所にいると自然と周りから声をかけられるユリウス達が、親しい者だけで話をしたいときによく使う席だった。

 フェリスを先頭に移動し、丸机の元まで着くと、今度は椅子を指差された。

 

「ちょっとそこ座って。取り合えず、疲労だけでもとってあげる」

 

 彼の治癒魔法は何も怪我を治すだけではない。ゲートの治療すらできるのだから、肉体の疲労を取り去ることなど容易だった。

 ユリウスが言われた通り大人しく座ると、左隣の椅子にフェリスが腰かける。ユリウスの正面に座るのはラインハルトだ。

 

「すまない、フェリス」

「どういたしまして」

 

 フェリスは両手でユリウスの左手を握り、治癒魔法を掛け始めた。温かな塊が手から腕へ、心臓へと渡り、血の流れに沿うように全身を癒す。重い鉛が抜けていくような感覚に、自分で思っている以上に倦怠感が体を覆っていたのだとユリウスは気付く。

 

「君の手は、温かいね」

「フェリちゃんの手は世界一優しい手だからね」

 

 軽くなる体に、感謝の代わりに告げた言葉だった。返された言葉に、刹那、息が止まった。

 夢の中の光景が脳裏に蘇る。彼の人を癒す手を人を傷つけるために使わせてしまったのは、ひとえにユリウスが躊躇ったせいだ。

 突然強張った手に、フェリスが顔を上げる。その横でラインハルトも不思議そうな面持ちで突然顔を翳らせたユリウスを見てきた。

 

「……君、達は」

 

 情けないほどにその声は震えていた。

 

「夢は、何故見ると思う」

 

 血を吐くような悲痛な声音で投げかけた問いに、二人が意表を突かれたような顔をする。突然何を言い出すのだ。そんなことを思っている顔だ。先に口を開いたのはラインハルトの方だった。指を口元に当てながら、ユリウスがどのような答えを求めているのか分からないまま、『夢』を解説するものとして最も適切な答えを口にする。

 

「寝ている間に脳が見る幻覚で、抑圧された願望を充足させる働きもあると言われているけど」

「――願望? あれが?」

 

 その答えは、ユリウスが望んでいたものでは決してなかった。

 彼を殺したくなどなかった。彼と友人になりたかった。彼はあんな場所であんな死に方をすべき人間ではなかった。絶望に抗い諦めなかった彼の努力が、あんな形で終わって良いわけがない。

 もし夢の情景の数々が、ユリウスの深層心理が生み出した願望だというのなら。

 

「だとすれば、私はここに生きているべきではないのだろうね」

 

 友と呼び、彼の存在に言葉では言い尽くせないほど救われておきながら、心の内では彼の死を望んでいるというのなら、こんなにも手酷い裏切りはない。

 ユリウスの浮かべる苦々しい微笑に、フェリスが眉を顰めた。少女のような顔立ちに嫌悪とも言えるような色が薄く浮かぶのを見て、己が不注意な発言をしていたことに気付く。

 

「……すまない、失言だった。少し夢見が悪かっただけだ」

「少し、って程度にゃら良いんだけど。ユリウスがそんなこと言うにゃんて……」

 

 他の者が命を軽んじることを言えば、もっと怒りを露わにしたであろうが、今フェリスの目の前にいるのはユリウスだ。付き合いも長く、互いに友人だと思っており、ユリウスがそのようなことを口にする青年ではないことをよく知っている。『暴食』に名を食われた時に、スバル以外の全てに忘れられようとも騎士としての矜持をもって、騎士あらんとしていた姿も知っていた。

 『最優の騎士』らしくない失言に戸惑うフェリスに、「ありがとう、楽になった」と再び感謝の言葉を伝え、ユリウスは椅子から立ち上がる。

 

「もう休憩が終わってしまう。私は失礼するよ」

 

 壁の魔刻結晶を見ると、いつの間にか随分と時間が経っていた。結局昼食は食べられなかったが、元々食欲もなかったのであまり問題はない。フェリスのおかげで、全快とまでは行かないが疲労感はかなり軽くなった。

 

「ユリウス」

 

 そのまま立ち去ろうとするユリウスに、赤髪の青年が声を掛ける。

 振り返ると、ラインハルトが青い瞳を真っ直ぐユリウスへ向けていた。

 

「なんだ?」

「最近、スバルには会ったかい」

 

 その名前は、今のユリウスが最も聞きたくなかった名前だった。僅かに顔を歪めてしまったが、二人は気づいただろうか。

 

「いや。彼が、何か?」

 

 首を緩く横に振る。

 暫く会うつもりはない。今スバルに会えば、きっと自分は酷い醜態を晒してしまうことになるだろうから。

 

「……いいや。体調には気を付けて」

「ああ、ありがとう」

 

 そう言って立ち去るユリウスの背中を、心配した面持ちで友人二人が見つめていた。

 

 

 

 

 

 ギイ、と座っていた椅子が小さく軋む音でユリウスは浅い眠りから覚醒する。ラグマイト鉱石で作られた照明の弱い光が、机上にある開かれた本を照らしていた。自室の机で本を読んでいる間に、いつの間にかうとうとしていたのだろう。

 後ろにある皴一つない状態のベッドは、もう何日も使われていない。

 

 今の自分があまり良くない状況だというのは、ユリウス自身理解していた。

 最後にまともに眠ってから、何日経つだろうか。最近では他の近衛騎士にも心配され、騎士団長のマーコスには「このままの状態が続けば無理矢理休暇を取らせるぞ」と脅されてしまった。

 柔らかなベッドに身を沈めれば、疲れの溜まった身体は瞬く間に眠りの淵に落ちていくだろう。だが、深淵を満たす淀んだ水の色はきっと鮮血の色だ。それがユリウスの血であるならば、まだ受け入れられよう。しかし、それは友の血だった。死にゆくスバルが流した血は、どれほど時間が経とうとも黒く変色することも腐敗することもなく、ユリウスの心を侵食し続ける。

 眠れば夢を見る。彼が死ぬ夢を。種類豊かな死に様は、何度見ても慣れる気配はない。助けることもできず、ただただ己の無力を見せつけられる。そんな夢の中で最も心を苛むのは、彼を殺める夢だ。数多の夢の中で一際異彩を放つその夢の中でユリウスは言う。「いずれ罰を受けるだろう」と。

 

――友に望まぬ決断をさせ、彼を殺めたことへの罰だというのだろうか、これが。

 

 犯してもいない罪のために魂を削られるような思いをするのは真っ平だったが、もしこの夢の数々に意味があるのだとしたら、それはどんな意味合いを持つのだろうか。ユリウスの願望ではない。それだけははっきりと断言できた。自らの騎士剣で彼の命を絶つくらいなら、いっそその刃を自身の首に当てたほうがずっと心穏やかでいられるだろう。

 曖昧で状況の分からない夢が多い中で、彼を手にかける夢は最も鮮烈に五感で感じることができるものだった。次第に鮮明になり長くなるそれは、『怠惰』殲滅時の記憶と似通った点が多かった。

 スバルがいて、ユリウスがいて、フェリスがいて、ヴィルヘルムがいた。だが、ユリウスの記憶にはない光景だった。ユリウスの知るスバルは己が『怠惰』の乗り移り先であることを知っていたし、『怠惰』殲滅の際はその権能を利用すらしていたように見えた。

 

「……考えても、栓無いことか」

 

 深く眠れば、さらに詳細を知ることも出来るだろう。が、誰が望んで友を殺す夢を見たがるだろうか。

 己の剣で彼の肉を、骨を断つ感覚が目覚めたときの手に残っていた。殺してくれと願った彼の声が、耳にこびり付いて離れない。日中の鍛錬で手袋越しに剣を握るとその感触を思い出してしまうため、最近では手袋を外して過ごすことが増えてしまった。

 夢を見たくないがために眠ることを拒否する今のユリウスは、とてもじゃないが人から『最優』と称される騎士ではない。現状に浮かぶのは自嘲だけだ。

 

 手元の本に目を向けて頁を捲り、中断していた読書を再開した。

 カーテンの向こうの空は藍色に染まっている。月のない夜は暗く、光の届かぬ暗闇は未だ朝には程遠かった。

 

 

 

 

 

「ユリウス、前会ったときウチがなんて言ったか覚えとる?」

 

 王城を訪れたアナスタシアの案内役を任せられたユリウスに会ったときに、アナスタシアが放った第一声はこれだった。クルシュ・カルステンが王になったことで王選が終わりアナスタシアが本拠地をカララギに戻したことで主従関係は解消されたが、その間に築いた信頼関係までなくなったわけではない。他国から来た王の賓客と案内役の騎士という他人行儀な間柄を保たなければならないほどの情勢でもない。

 前回ユリウスがアナスタシアと会ったのは十日前、城下で警邏中に、今日のクルシュとの会談に向けてアナスタシアがいろいろと下準備を整えていた時だ。その時に身体は全てにおける資本だと滔々と説かれ、次会う時までにその辛気臭い顔をどうにかしろと言われていたのだが、どうにもならなかったのが現状だ。今日はアナスタシアに会うため、近頃で最も調子が良くなるよう調整していたのだが、まだまだ及第点とはならなかったらしい。

 護衛役として着いてきているリカードの服装が少々王城を出歩くには不釣り合いなので、人通りの少ない廊下を三人は歩いてクルシュの執務室へと向かう。

 

「せっかく綺麗な顔しとるんに、そぉんな顔色しとったら台無しやよ。まったく、格好付けも大概にせえよ」

「申し訳ありません。自らの未熟を恥じるばかりです」

「恥じる前に解決しよう思わんの? ほんま頑固やなあ」

「お嬢は素直やないなあ! ユリウスのこと心配しとるんやったら素直にそう言えばええやんか。わざわざあの兄ちゃんに――」

「だまっとき、リカード」

 

 丸い浅葱色の瞳をキッと細めて、アナスタシアは頭上から声を掛けてきた獣人を睨む。

 アナスタシアが遮ったためリカードが何を言おうとしていたのかユリウスには分からなかったが、彼女がそのようなことをしたのも何か理由があるのだと思い追及することもなく、ただアナスタシアがかつて一の騎士であったユリウスの不調に心砕いてくれているという事実だけを受け止めた。

 アナスタシアに対し「がははは! ほんま素直やないなあ!」と大きな声で笑う犬顔の獣人を見上げ、ふと思い出す。彼もまた、白鯨討伐と怠惰殲滅、その両方に関わった人物であることを。

 

「……リカード、スバルは何故『怠惰』の大罪司教の能力を知っていたのだろうか」

「何や、急に」

「重要なことなんだ」

 

 『怠惰』の大罪司教ペテルギウス・ロマネコンティ。その存在が邪精霊であると分かったのは、スバルの発言がきっかけだ。彼は世間知らずなところがある反面、普通の人間では知るはずのない知識を持っていることが多かったが、魔女教に関しては特にそれが顕著だった。

 

「『見えざる手』とか『憑依』とかいうやつか。前に『怠惰』に出くわしたことがあるからやって兄ちゃんが言うとったはずやけど、それがどうかしたんか? ユリウスも聞いとったやろ」

 

 ああ、そうだ。確かにユリウスも、その言葉を聞いていた。俯き、口元に手を当てて思案する。

 

「確か……」

 

 あの時、スバルはユリウスに「もしイアが無理やり追い出されるとしたらどんな場合だ」と訊いてきた。まるでそんな事態が過去にあったかのように。けれどユリウスはその事態を知らず、イアに尋ねても知らないという返事しか返ってこなかった。スバルの意思に関係なくイアが彼から追い出されるとしたら、正式な契約により仮契約が押しのけられる以外にあり得ない。だがその質問をしてきた時の彼は、まだ『怠惰』の正体を知らなかったはずだ。そもそも、その事実すら知らないスバルが、何故『怠惰』が乗り移る対象に自分も入ると知っていたのか。

 夢の中の自分が口にする言葉の中に「イアが突然スバルの体から弾かれた時点で嫌な予感はしていた」というものがあった。『怠惰』がスバルの肉体を乗っ取ったために、イアは彼から離れざるをえなかったのだ。

 夢と現実の類似点があまりにも多すぎる。まるで、その二つは繋がっているかのような錯覚すら覚える。

 

 ナツキ・スバルには少し先の未来を知る力があった、ということは王選に深く関わった者達なら既知の事実だ。『魔女』とスバルに強い繋がりがあったことにより与えられた権能だと聞いているが、本人が詳しく話そうとしないので詳細を知る者はいない。周囲が知るのは、『嫉妬の魔女』がいなくなった今その力は失われているということだけだ。

 

 夢において、ユリウスは死にゆく彼を見つ続けているが、彼が死したその先を見たことはない。まるでそこで世界が一度終わってしまうかのように、彼の息絶えるその瞬間までしか認識することは出来なかった。

 パズル嵌まっていくような感覚だった。睡眠不足で通常より回転は落ち、疲労により酷い頭痛もしているが、それでもユリウスの頭脳は優秀だった。

 

「……なるほど、あれは」

 

 あれは、彼の過去か。

 誰も知らない、誰もが忘れた、ナツキ・スバルの過去。失敗して、失敗して、失敗して、過去に立ち返り、死に返り。腹を裂かれ、手足がもがれようとも懸命に全てを救い、掬おうとしてきた彼の軌跡が、ユリウスの見ている夢だ。

 未来を知る力というのは、おそらくスバルが死ぬ直前に過去へ遡る能力のようなものなのだろう。荒唐無稽にも程がある考えだが、これ以上納得がいく解答を、今のユリウスの頭で叩き出すことは出来なかった。

 

「罰か。なるほどな」

 

 誰も、それこそユリウス自身すら覚えておらずとも、夢の中のあの出来事はきっと事実なのだ。ならば懲らしめが科せられるのも当然かもしれない。あの夢の数々こそ、ユリウスに与えられた罰なのだろう。彼を喪うことほど恐ろしいものはない。

 今、スバルがここにいなくて良かった。心の底からそう思った。今彼を目の前にして、冷静に自分を保っていられる自信はない。

 

「ユリウス、一人で何納得したかは知らんけど、一人で考え込んでも碌なことにならんよ」

 

 一人で思索し何らかの結論を得たユリウスに、アナスタシアは睥睨する。先程された質問の意味が分からなかったリカードも、ユリウスがあまりよろしくない結論に至ったことを察し難しい顔をした。

 

「なんやおかしなことになっとるなあ。こりゃほんまにあの兄ちゃんに任せた方が――」

 

 リカードが言葉を途中で止めて、ふいに顔を上げた。ユリウスの背後のさらに奥の方を眺めて「ええタイミングやな」と言う。誰か来たのだろうかと、ユリウスがリカードの視線の先を追うために振り返ろうとしたとき。

 

「あっ、いたいたアナスタシアさん! 良かった、見つかって。王城広いから下手するとすぐ迷うんだよなあ」

 

 聞こえた声に、息を呑んだ。

 

「ナツキくん、来るん遅いで!」

「俺も今そんな暇人じゃないんですって。……げっ、ユリウス、お前それどうしたんだよ」

 

 早鐘のように鼓動する心臓が痛い。知らず知らずのうちに右足を半歩後ろへ下げ、身体は持ち主の無意識に従い逃げの体勢になっていた。

 

――どうしてここに。一番会いたくないときに、どうして。

 

 そんなユリウスの内心も知らず、スバルは遠慮もなく距離を詰めてくる。二人の間に今更遠慮など必要ないことを了解しているが故の行動だが、今のユリウスにとっては何よりも恐ろしい行動だった。

 

「お前せっかく見た目だけは良いんだから、もうちょっと自分の顔に気を配れよ」

 

 つっけんどんな言い方だったが、その顔にはユリウスを気遣う色が浮かんでいた。ここ十数日間、最も多くユリウスに向けられた表情だ。いつもならば皮肉の一つでも言い返しているが、開いた唇は震え、言葉を紡ぐことはできなかった。

 

――彼に心配される資格があるのだろうか。

 

 手を伸ばされた。

 

――触れても良いのだろうか、自分が。

 

 その手を避けるように、近づいた分離れるためさらに一歩左足を後ろへ下げる。スバルの顔をまともに見ることもできず、ユリウスは視線を左へ逸らした。

 

「おいユリウス、俺の話聞いてるか?」

 

 返事をせず目も合わせようとしないユリウスを心配したスバルが、離れようとする身体を引き留めるために手首を掴んだ。そのあたたかな体温に、ひゅ、と喉が鳴る。

 

 気が付くと、目の前の身体を引き寄せていた。

 

「スバル」

 

 アナスタシアやリカードが傍にいるのも忘れ、腕の中に在る青年を両腕で強く抱きしめた。戸惑う声がユリウスの名前を呼ぶ。その声にすら、泣きたくなるほどの情動が沸いてくる。腕の力を強めると、目の前の肩口に顔を寄せて名前を呼んだ。

 

「スバル、スバル」

 

 腕がついている。足がある。傷のない喉は声を発し、黒い瞳には光がある。温かい。血が通っている。心臓が動いている。息をしている。確かに、生きている。

 命があることが、胸が震えるほどの感情の波をもたらす。

 何を言おうとしているのか自分でも分からないまま、口を開いた。

 

「私は、君を――」

 

 そこで、ユリウスの視界は暗転した。

 

 

 

 

 

「ずばり、寝不足だね」

「寝不足?」

 

 スバルを抱きしめたまま意識を失ったユリウスを、リカードがスバルごと抱え上げて、王城の救護室に担ぎ込んだ。ユリウスが倒れた時にちょうど近くを通りかかっていた騎士が血の気が引いた真っ青な顔で城下で治療を行っていたフェリスを呼びに走り、その様子に慌てたフェリスが走ってやってきて、今しがた治療を終えたところだ。と言っても、怪我でも病気でもなく精神的疲労と睡眠不足が祟り気絶した状態だったので、以前と同じように肉体に溜まった疲労を取り除くことしかできなかったが。

 

「確かにひっどい顔色だったけど、こいつが寝不足なんて事態に陥るやつかよ」

「フェリちゃんはここ最近王都離れてて会えてにゃかったけど、最近はずっとこんな感じだったみたい。二週間前に会った時も夢見の悪さが原因で死にそうな顔色してたから、あれ以来ずっとこうなら、むしろ今日まで倒れなかったのが不思議ってくらい」

「夢見だあ?」

 

 たかが夢見が悪い程度で、ここまで酷い状態になるものだろうか。そこらの一般人なら夢が怖くて眠れないことがあるだろうが、今ベッドに横たわっているのは『最優の騎士』ユリウス・ユークリウスだ。スバル自身、過去の諸々が夢に出てきたせいで魘されることは未だにあるが、倒れるほど眠れない状況に陥ったことはなかった。

 

「……どんな夢かっていうのは分かるのか?」

「分かんにゃい……けど、スバルきゅんに関することなんじゃにゃい?」

「はあ、俺? なんでまた」

「だって、スバルきゅんに会って、スバルきゅんの名前何回も呼んで、スバルきゅんのこと傍目も気にせずぎゅうぎゅう抱きしめてから倒れたんでしょ? 睡眠不足でかなり精神的に負荷がかかってたのは確かだけど、いくらスバルきゅんのこと大好きで心が弱ってるからと言って、ただ縋るだけが理由でユリウスがそんにゃことすると思う? なにより、その手」

 

 フェリスの手がスバルの左腕の手元を指差した。ユリウスの右手は皺が寄るほど強い力でスバルの服の裾を掴んでいた。スバルに触れることを恐れながらも、離れることをさらに怖がっているようなその手に、スバルも無碍に扱うことができず、こうしてベッド横に座り、ユリウスの青白い寝顔を見守ることになってしまっている。

 

「……でも俺、二週間どころか二ヶ月近くユリウスに会ってないぞ。前に会ったときも何かした覚えもされた覚えもねえし」

 

 エミリアがロズワール邸を中心に活動しているので用事がなければ王都に来る必要はないし、たとえ王都に来てもわざわざユリウスに会う必要がないため、長期間会わないのはよくあることだった。

 そもそも何故今日、スバルがエミリアやレムを連れずにベアトリスと二人だけで王都、それも王城にいたかと言えば、だ。ここ二週間で立て続けにアナスタシア陣営の者達やフェリス、ラインハルトに「ユリウスに会ってほしい」と言われたからだ。フェリスは偶然ロズワール邸を訪れる機会があったためだが、アナスタシア達やラインハルトはスバルにそれを伝えることだけを目的としていた。事情を聞けばユリウスの様子がおかしいと返され、どうおかしいのかと聞けば言葉を濁される。

 スバルより余程付き合いの長いラインハルトやフェリス、かつてユリウスが剣を捧げたアナスタシアにどうにもできないことならスバルが何かできるとは思えなかったが、彼等の方は違うらしい。彼等はスバルを過信しすぎている節があるが、殊ユリウスに関しては特にそれが顕著だ。一昨日ヨシュアがやってきて「アナスタシア様が明後日王城へ行かれるので、会うきっかけが持てないというのならその時に会ってください」とせっついてきたことにより、これはいよいよ只事ではないと判断したエミリアが、叩き出すようにスバルを追い出したのだ。

 ベッドを挟みスバルの反対側に座っていたフェリスが立ち上がる。

 

「フェリちゃんはもう行かなきゃいけないけど……今はちゃんと眠れてるみたいだし、暫く付いててもらえる? 身体の疲労の方は無理矢理治したけど、精神面の方は治癒魔法じゃどうにもにゃらないから、せめて一晩中はちゃんと寝かせておきたいんだよね。予備の毛布、ソファのところに置いとくから、ユリウスの手が離れたらここで寝てネ」

「毛布、今貰っても良いか? たぶんこれ離れそうにないし。いっそこいつの腹でも枕にして寝てやるよ」

 

 ユリウスに服を掴まれていない空いた右手を差し出すと、手の平の上に毛布が乗せられる。流石王城の備品なだけあって、触り心地は抜群だった。

 

「アナスタシア様達は明日まで忙しくて来れないと思うから、一晩よろしくねスバルきゅん」

「なんでみんな俺に任せるんだろうな……」

 

 アナスタシア達は、スバルがユリウスに付き添うことになると分かると、あとをスバルに任せてすぐにクルシュに会いに行ってしまった。また、ユリウスが倒れて救護室に担ぎ込まれたと知った騎士達も、最近の不調気味のユリウスを知っていたため非常に心配していたらしいが、傍にスバルがいると知ると安心して仕事に戻ったらしい。彼らはスバルの玉座の間や練兵場での醜態を確実に知っているはずだが、それで良いのだろうか。

 ちなみにベアトリスは、弱っている姿を幼女に見せるのはユリウスも嫌だろうと一応気を使い、宿に帰していた。

 

「何かあったら、隣の部屋に常駐の治癒術師がいるから呼んでね。結構小さい声でも届いちゃうから寝言には気を付けて」

「王様の城なのにそんな壁薄くて大丈夫か!?」

「この部屋だけだから大丈夫大丈夫」

 

 それだけ言い残すと、フェリスは部屋を後にしてしまった。

 右手に持っていた毛布を片手だけで器用に広げ、肩に乗せる。椅子に座ったまま、相変わらずスバルの服を握っているユリウスの、腹が立つほどに端麗な容貌を見下ろす。閉じられている琥珀の瞳の下には、まだ薄っすらと隈が残っている。フェリスの治療のおかげで、今はまともな顔色をしているが、顔を合わせたときは生者よりもむしろ死人に近い青白い顔色をしていた。容姿が整っているせいもあり、幽鬼もかくやという状態だった。

 

「俺がいるからって、どうにかなるもんかね」

 

 矜持の高い青年だ。誰かに頼らずに済むことなら自分だけで解決しようとする。スバルを除いた世界中から忘れられても、その事実を一人で乗り越えたユリウスの心根の強さは、素直に言葉にはしないが称賛に価するものだ。そんな男の心がこうも分かりやすくぽっきりと折れた理由を、スバルが何かすることで取り除けるとは到底思えなかった。

 

 特にすることもなかったため、ベッド脇の小さな棚に入っていた分厚い本を手に取った。付き添いの人間の暇つぶし用だろうか。「親竜王国ルグニカの歴史」という楽しさも何もなさそうな本だ。室内にある他の三床のベッドの脇にも同じ背表紙の本が置かれているので、ホテルに置いてある聖書のようなものなのかもしれない。

 この何年かで文字は余程難しいものでない限り問題なく読めるようになった。特に深い興味もわかないまま、ぺらぺらと中身を斜め読みする。目の前に横たわっている歴史オタク兼英雄オタクなところがある青年なら、この無味無臭な歴史書に載っていない面白い逸話を知っているのだろうが、生憎スバルは魔女教を倒すにあたり関わらざるをえなかった三英傑の裏事情くらいしか知らなかった。

 

 

 

 睡眠導入剤として最適だった歴史書を膝の上に置いてうとうとしていると、ふいに声が聞こえた。沈みかけていた意識が一気に浮上する。

 閉じていた瞳を開いた先に、魘されるユリウスの姿があった。

 

「っ、ぅ、ぁ……」

 

 額に汗を浮かべ、眉間に深く皴を刻み、眉目秀麗な容貌を歪めている。歯を食いしばりながらも漏れ出る声は、聞いてるこちらの心が痛くなるほど苦しげなものだ。

 夢見の悪さが原因だと確かに聞いていた。だが、どんな悪夢を見ればこうも魘されるのか。

 

「おい、大丈夫か?」

 

 立ち上がり、肩を揺すって起こそうとしたところで、くん、と左腕が突っ張る。見れば、ユリウスの右手が先程よりもさらに強い力でスバルの袖を掴んでいた。絶対にそこから動くなと言わんばかりの力だ。

 すとんと身体を椅子に戻され、どうするのが最も適切か思案する。

 悪夢から逃がすためには、起こすのが一番だろう。だがここで起こして、ユリウスはもう一度眠りに戻るだろうか。こんなにも悲痛な魘され方をするのが分かってしまえば、スバルも無理に寝かせるはできない。しかし眠らせなければどうせまたすぐに倒れるだろう。

 となれば、このまま寝かせておく方が良い。だが、こんなに魘されている状態を見過ごせはしない。

 

 かつて、悪夢を見ていたスバルを想い、手を握ってくれたメイド達がいた。今では片方はスバルにとって掛け替えのない存在となり、もう片方も何があろうと失いたくない身内になったが、あの時の二人にとってスバルはただ拒絶ばかりを繰り返す面倒な客人に過ぎなかった。それでも、魘されるスバルを不憫に思い、前回、前々回の周回でスバルを殺したのと同じ白い手で、スバルの手を優しく握り、恐怖を退けてくれた。誰も、手を繋いだ本人達ですらも覚えていないが、その優しさと慈しみをスバルだけは覚えている。

 

「あーっ! もう、クソッ、今回だけだぞ!? なんか俺が夢で苦しめてるみたいだし!? お前が弱ってるところとか見せられても困るんだよこっちは!」

 

 裾を掴むユリウスの右手に、左手を重ねた。血の通わぬ死体のように冷たい右手に驚き、思わずそのまま手を滑らせてユリウスの指を握り込んだ。体温を移すようにそのまま繋いでいると、徐々に拘束が和らいでいく。

 スバルは手ばかり凝視していた顔を上げて、手の持ち主であるユリウスの顔を伺い見た。悩ましげに顰められていた柳眉からは力が抜け、寝息も先程よりずっと穏やかになっていた。

 

 効果がなければすぐに放そうと思っていたのに、手を握ることの有用性をこうもまざまざと見せられてしまっては、今更放すことはできなかった。このままユリウスが目覚めるまで付き合うことを覚悟したスバルは、観念して小さく溜め息を吐く。

 手はそのままに、腰掛けていた椅子の背もたれに身体を預ける。流石王城の家具なだけあり、スバルが全体重をかけようとも全く軋まない。

 普段はスバルにだけは弱いところを見せようとしないユリウスが、今はスバルにだけ弱さを見せているのだから、これはきっと相当なことなのだ。『最優』の騎士が眠れなくなるほどの悪夢など、スバルには皆目見当もつかないが、スバルの存在一つで今のユリウスが怖気から救われるのであれば、手を貸さないわけにはいかない。

 

「何が楽しくて、柔らかくもない男の手を握らなきゃならねえんだよ……いやユリウスの手が柔らかかったらそれは凄い嫌なんだけどな。俺の手はエミリアたんやレムやベア子と繋ぐためにあって、お前と繋ぐ空きの手なんて本当ならないんだぞ」

 

 いつもなら優雅に皮肉を言い返してくる相手は、今は夢の中だ。

 それなりに暖まり血の気が戻ってきた指は、強張りも薄まっていた。指を絡め、いわゆる恋人繋ぎの状態にして手の密着度をさらに増やす。ぎゅう、とユリウスの手が強く握り返してきたので、比較的自由の利く親指で、白い手の甲をあやすように撫でた。

 

「これは治療、これは治療、これは治療」

 

 自分に言い聞かせるように、小さく何度も繰り返す。これは治療だ。治療のために、文字通り手を貸しているだけだ。治療なのだから仕方ない。人に顔向けできない行為を行っているわけじゃない。彼を助けられるのが自分だけだという優越感を必死に殺す。魘され眠れない者の手を握る。その行為に何も疚しいことはない。

 

「さっさと起きろよな、バーカ」

 

 疚しさなど、ありはしないのだ。

 

 

 

 

 

 ここ何日か徹夜の目を苛んでばかりだった朝日が、久しぶりにユリウスに穏やかな目覚めを齎した。悪夢を見ることなく熟睡できたのはいつぶりだろう。目覚めとはこんなに暖かいものだったろうか。

 ゆるゆると目を開き、今の自分が置かれている状況の把握に努めた。白い天井は王城の救護室のものだ。ぼんやりとしている記憶を探り、そういえば王城の廊下でスバルと会い、そのまま気を失ってしまったのだと思い出す。

 

「失態だ……」

 

 右手で額にかかる前髪に触れようとしたところで、その手が何かに拘束されていることに気付く。腹の上にも何か重みがある。何があるのかと疑問に思い上半身を起こしたことで、その何かが人で、ユリウスが気を失う前に醜態を晒した相手――ナツキ・スバルだと理解した。

 

「スバル?」

 

 右手はスバルの左手を握っている状態で布団の上に置かれていて、下腹あたりの掛け布団はすやすやと気持ち良さそうに眠る彼の枕になっていた。少しの間、間の抜けた表情を晒してしまったが、次第に今の状況が思考に染み込んでくる。

 

――なるほど、夢を見なかった理由はこれか。

 

 魘されるユリウスを想い、手を繋いでくれたのだろう。

 利き手を塞げば、剣は握れない。振りかざすこともできなければ、それで愛しい誰かの骨を断つこともない。温かい血が通う生きた手を握っているのだから、彼の生を見失うことはない。

 スバルの手は、大切な誰かのためにある。彼が誰よりも愛する銀髪の少女を支えるために。彼を支える青い髪の少女と手を繋ぐために。彼の相棒である精霊の少女の頭を撫でるために。彼に献身と忠愛を捧げる愛竜を労るために。

 そしてこの一晩、彼の手はユリウスのためにあった。スバルの体温だけが、ユリウスを真っ赤な喪失の湖から引き上げることができた。この暖かさを失えば、ユリウスはきっと生きていけない。ここ何週間で、それを嫌と言うほど思い知った。

 命の消えた死に顔ではない。ただ安眠を貪るだけの、呑気で隙だらけなスバルの寝顔は、疲弊しきっていたユリウスの心を安堵で優しく満たした。

 

「スバル」

 

 名を呼ぶが、答える声はない。自由な左手で、スバルの額にかかっている黒い前髪に触れた。元々実際の年齢よりも若く見えるが、普段上げている前髪を下ろすとさらに幼さが増して見える。出会った頃は17歳だった彼も、もうすぐ21歳になる。スバルと初めて出会った頃のユリウスと同い年になろうと言うのに、その顔には未だ少年のような柔さがあった。民族的に若く見える顔立ちなのだと主張していたが、真実がどうなのかは知らない。

 初対面の者には機嫌が悪いのだと誤解される目つきの良くない三白眼も、こうして眠りの中に浸り黒い瞳が見えなくなってる時は、スバル本来の心根の優しさが表に出る。ユリウスがスバルの寝顔を初めて見たのは、プリステラでユリウス・ユークリウスの名が『暴食』に食われた後、プレアデス監視塔へ向かうことになった道中だ。白鯨を落とし、『怠惰』を倒し、大兎を殲滅させ、『強欲』を滅ぼした少年とは思えない幼い寝顔に、初めは驚いたものだった。

 

「……スバル」

 

 再び名を呼んだ。その声に混ざる甘い感情があまりにも分かりやすく、これは暫く周囲に揶揄われてしまうなと苦笑する。それでも呼ばずにはいられなかった。目の前の彼の名前を呼べることが、これ以上ないほどの幸福だと思えた。

 スバルの前髪に触れていた左手を下ろし、髪の下にある目尻を親指の腹で撫でた。柔らかな接触に、黒い睫毛がふるりと震える。

 

「んあ……?」

「おはよう、スバル」

 

 のっそりと緩慢な動作で身体を起こしたスバルは、しばらくぼんやりとユリウスの顔を見ていたが、何度か瞬きを繰り返すうちに覚醒し、己の左手を見下ろすとバッと勢いよく手を離した。右手の中からなくなった温もりが名残惜しい。

 スバルが魘されていたユリウスを宥めようと手を握ってくれたことは理解している。そこに何も疚しいことなどないのに、恥ずかしさからか必死に左手を背に隠そうとする姿が、今のユリウスにはとても愛おしく思えた。

 視線をあちこち彷徨わせていたスバルだが、一度きゅっと唇を結ぶと、ユリウスと目を合わせ、やんわりと苦情を言い立てる。

 

「……目、覚めたのかよ。お前倒れるまで寝ないとか、ギネスもない世界でなに馬鹿やってんの? 俺の地元でもギネス不眠記録は11日なんだぞ? なんだよ二週間寝てませんって」

「短時間の睡眠なら摂っていたよ」

「夢見ないくらい短い睡眠なんて睡眠扱いするなよ。ったく、人巻き込んで倒れといて何言ってんだか。身体は全ての基本なんだぞ?」

「アナスタシア様にも同じことを言われたよ」

「だったらその時点で改善する努力をしろよ!」

 

 威嚇する猫のような勢いだが、その内容はユリウスを気遣うものだ。分かりやすい優しさに、くすくすと自然と笑みが零れた。

 ユリウスが浮かべた柔らかな笑みを見てスバルは固まると、またうろうろと目を泳がせる。

 

「……その、大丈夫、なのか」

 

 視線を逸らして部屋の隅を見つめながら、呟かれた小さな声。

 

「ああ、もう大丈夫だ。心配をかけてすまなかった」

 

 その声に、精一杯の気持ちを込めて謝意を示す。微笑みながら告げられた感謝の言葉に、スバルの肩から力が抜けるのが見て取れた。近しい者が傷つくのを酷く恐れているところがあるスバルだ。彼の目の前で倒れたのだから、さぞ心配したことだろう。スバルに心労をかけておきながらも、心配される存在に自分が入っていることが嬉しくて仕方がない。

 

「スバル、もう一度手を握っても、良いだろうか」

「……ん」

 

 眉間に皴を寄せながらも、躊躇うことなく左手は差し出された。きめ細かな象牙色の皮膚には、小さく細かな傷跡が残っている。服の下にも数えきれないほどの傷痕があることは知っている。差し出された手を恭しく両手で握り、スバルの顔から視線を外して、その手の甲を撫でた。

 

「スバル」

「なに」

「もし私が君を殺めたならば、君は私を恨んでくれるだろうか」

「ああ?」

 

 静かに投げかけられた問いに、スバルが悪い目つきをさらに悪くして顔を顰めた。

 

「やれもしないこと言って、そんな顔してるとか馬鹿かお前は」

「そんな顔とは?」

「今にも死にそうなくらいひっどい顔」

 

 吐き出すように言われた言葉に苦笑する。昨日までの自分と、どっちが酷い顔をしているだろうか。握っている手に視線を落としているユリウスは、歪められたスバルの顔を見ることはなかった。

 

「……恨むわけないだろ。お前がそんなことするわけない。ユリウスがそんなことをするなら、きっとそれは、俺がそう望んだ時だけだ。だから、恨みはしねえよ。……だけど、忘れてほしくないとは思うだろうな」

 

 そう言うスバルは、ユリウスがスバルを殺めたとしても、本当に恨みはしないだろう。だからどれほどユリウスが夢の内容を気にしようとも、スバルは心配される資格や触れる資格など考えない。目の前に体調の悪そうな相手がいれば心配し、ユリウスが離れようとすれば躊躇いなくその手を掴む。罰とて、ユリウスが勝手に罪の意識を持っているだけだ。

 昨日までの自分は随分と悲観的な考え方をしていたように思うが、もしあの夢に意味があるとするなら、それはユリウスに罰を与えるためではない。覚えていろ、忘れるな。そんなところだろうか。

 

「――ああ、忘れない。私だけは、絶対に」

 

 この温もりがどれほど尊いものか。どれだけの苦難をスバルが乗り越えてきたのか。ユリウスだけは、決して忘れない。忘れたくない。

 瞳を閉じ、目蓋の裏に浮かぶ夢の情景を思い出す。友を殺める苦しみも、手にかけたときの感触も、死にゆく彼を助けることも出来ず見ているしかない無力さも、すべて覚えている。その全てを糧にして、これからのユリウスに何ができるだろう。

 

 ふと、視線を落としたスバルの指先に小さなささくれがあることに気付く。何の躊躇いもなく手を持ち上げ、指先にそっと口づけた。準精霊の力を借り、唇が逆剥けた表皮に触れた時にその荒れを治す。

 

「は……? えっ、お前今なにしたの」

「ささくれを治しただけだが、何か問題があったかな」

「も、問題大有りだわ! なんでキスする必要あった!? 触るだけでできんだろうが! いやそもそも、ささくれすら治したがるとかお前はレムか!?」

「君に傷一つついてほしくないと思う点では、レム嬢と私は確かに同じ気持ちなのだろうね」

「マジでどうした!? 睡眠不足で脳細胞半分くらい死滅したんじゃないのユリウスさん!? オレオトコ、オマエオトコ。アンダースタン!?」

 

 ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てながら、それでもユリウスの手を振りほどこうとしないのは、ひとえにスバルが優しいからだ。スバルには原因が分からない事情で不眠症に陥っていたユリウスが救いを求めるように乞うた手を、スバルは振り払えない。

 

「どうかしたわけではない。ただ、気付いただけだよ」

 

――そんな君が、酷く愛おしい。

 

「スバル、私は君を愛おしく思っている」

 

 思考と重なるように、ユリウスの薄い唇からは愛の告白が零れ落ちていた。突然の言葉に、スバルは口をぽかんと開き、目を丸くしている。

 

「君と出逢えたことを、君を友と呼べることを、今こうして、君と手を繋げる存在になれたことを、何よりも誇らしく思う」

 

 一度零れ落ちてしまえば、堰き止めてられていた想いはあとを追うように溢れていく。

 

「君には愛する者が大勢いることは知っている。彼女達の存在があったからこそ、今の君が在るのだと分かっている。なにも同じだけの気持ちを返してほしいわけではないんだ。君が私を友だと言ってくれるようになった、それだけで私は十二分に報われているのだから」

 

 もはや、ナツキ・スバルという人間なしで今のユリウスは成り立たない。もし今スバルの存在がユリウスの中から消えてしまえば、きっと自分はまともに呼吸をすることすら叶わないに違いない。

 再び手に視線を落とし、もう一度その手を優しく撫でる。

 

「私は君を愛しているよ」

 

 夢の情景だけではない、ユリウスが今までの人生で得たもの全てを糧にして、スバルを愛したいと思った。

 受け入れられなくて良い。せめて、愛することを許してほしい。愛していることを知っていてほしい。そんな思いで口にした言葉だった。

 

 言いたいことを言い切ったユリウスが黙ると、部屋には沈黙が落ちた。普段の言動から軽薄そうに見られることも多いが、ナツキ・スバルは向けられる想いに真摯に答える男だ。向けられたユリウスからの気持ちになんと答えようか、考えているのだろう。

 だが、一拍経って、二拍待って、三拍が過ぎても、沈黙が破られることはなかった。

 普段は煩いほどに賑やかな青年から一向に言葉が返ってこない。否定されるのでも肯定されるのでも良い。何らかの反応を期待していたのに、どうにも様子が変だ。

 

 視線を上げた先にあったスバルの姿に、ユリウスはぱちりと目を瞬かせた。

 

「スバル、そのような顔はするものじゃない。それ以上を望みたくなってしまうからね」

 

 スバルは、首から耳まで全部真っ赤にし、黒い双眸には涙を滲ませて、唇を震わせて言葉も出せないでいた。その姿は、ユリウスの愛を許可するどころか、それ以上を求めても許されそうなほどに動揺を示していた。

 

――ああ、そういえば、スバルは好意に弱かったな。

 

 水の羽衣亭での褒め殺しの一幕を思い出し、ユリウスは琥珀の瞳を柔らかく緩めて破顔した。

 

 

 

春がわたしを急き立てる

 

 

 

押せばいける!って察したユリウスがぐいぐい行くので、どうせこの後ユスはくっつく。

 

隣の部屋ではモブ治癒術師が壁に耳当てて「はわわ……ユリウス様やっぱりスバル様のこと……!」ってなってるし、この後「ユリウスに何かあったらナツキ・スバルに任せるに限る」って風潮が加速する。

 

ユリウス、スバルへの好感度そこまで高くない時点ですらあんなだったんだから、スバルへの好感度がMAXになってるだろう王選後とかにあんなことになったら、わりと目も当てられないことになりそうだなって。

 

 

タイトル:afaik様(http://m45.o.oo7.jp/)