ユリウスのマンションに着くまでの道中は、十数分間何の会話もなかった。ジワジワと蝉が鳴く夏の初め、成長期を過ぎた男二人が手と手を繋いで(正確には手首を掴み掴まれ)並び無言のまま歩いている姿は、きっと周りから見れば異様な光景だっただろう。
隠そうとはしているようだが、左手首を掴む強さと脇目も振らずに歩みを進める横顔を見れば、ユリウスがとても動揺していることは、それなりに付き合いのあるスバルには手に取るように分かった。この青年がこうも取り乱しているのは非常に珍しい。数分前、手首の痛みを訴えたことにより力は弱められたものの、スバルの手首を一周する白く長い指が離されることはなかった。ならばと、歩きながらでも良いから事情を説明してほしいと乞うても、「駄目だ」の一言で却下される。別に良いじゃないかと思いつつ、いやもしかして事態はスバルが思っている以上にかなり悪いのでは? と思い直し、それだったらユリウスの部屋に行くよりもすぐさま頭の病院へ行ったほうが良いのでは? と考えて。手を引かれながらスバルがああでもないこうでもないと思考しているうちに、気付けば見慣れたマンションの前に立っていた。
カードキーでオートロックを解錠したユリウスは、二つ並んだエレベーターの前まで行ってから、不意に立ち止まる。スバルより数センチ上にある顔を見上げると、難しそうな顔で上階へのボタンを睨んでいた。高層階に住んでいるのだから、エレベーターで行かなければ階段で行くしかない。マンション内は廊下や階段もある程度冷房が効いているものの、何故十階分の階段を上ろうか悩んでいるのか。
横から割り込み、えいやっと自由な右手の人差し指で上階行きボタンを押すと、「待ってくれ、狭い個室は……!」と非難の声をあげられた。狭い個室だからなんだと言うのか。ユリウスが眉間を抑えて「心の準備が……」とまたよく理解できないことを言っているうちに、到着音が鳴り、扉が開いた。ここまでの十数分とは逆で、手首を掴まれているスバルがユリウスを引っ張る形でエレベーター内へ入ることとなる。
「で、こんなに急いでた理由ってなんだよ」
「……すまないが、それよりも、もう少し匂いを抑えてくれないか。この近さでこれは少々辛いものがある……」
「臭い? 昨日の夜ちゃんと風呂入ったけど、もしかして俺汗臭いか?」
「汗ではなく……いや、君は斑類に成り立てだったね。分からないのも無理はない。先祖返りのアピールは強いと聞いていたが、まさかこれほどまでとは……」
「さっきからぶつぶつ何言ってんの?」
10のボタンを押してから訊ねてみても、ユリウスはやはりいつもと様子が違いすぎた。掴まれていた手首は既に解放されていて、ユリウスはエレベーターの操作ボタン付近にいるスバルの対角で何やらスバルには分からない独り言を呟いている。こいつこそ熱でもあるんじゃないかと疑わしく思っているうちに、目的階へ到着したことを知らせる音が鳴る。
もう三年近く何度も訪れている部屋だ。勝手知ったると言わんばかりに廊下を進み、ユリウスの部屋の前に着くと、遅れて歩いてきた彼が鍵を開けるのを待つ。
「おじゃましまーす」
部屋主に続いて、スバルは玄関をくぐった。無意識のうちに、すんすんと鼻が動く。
「……またこの匂いだ」
先程も嗅いだ甘やかで涼しげな香りが、部屋の中から風と共に流れてきた。
ユリウスが大学に進学し一人暮らしを始めてから、数え切れないほどこの部屋を訪れているスバルだが、今まで一度だってこんな匂い感じたことがなかった。かといって、違う部屋のように感じるかと言えばそのようなことは全くなく、むしろこれこそがこの部屋のあるべき姿のようにすら思えた。
勝手知ったる友人の部屋、その突然の変化に面食らって三和土で立ち止まったままのスバル。その姿を見た部屋主は、先程までの動揺はどこへやら、自分のテリトリーに戻って安心したかのようにいつもの優雅さを取り戻して、怪訝そうに入室を促してきた。
「スバル? 何をしているんだ、早く入りたまえ」
「……へーい」
「君は先に座っていてくれ。私は少し探し物をしてくる」
「ん、了解」
靴を脱ぎ、揃えて、リビングにある三人掛けのソファの端に腰を下ろす。肩から提げていた鞄は下ろし、ソファの横に置いた。スバルはきょろきょろと部屋の中を見渡したが、特に普段と変わっている物は見られない。敢えて言うなら、壁に飾られている写真が春仕様から夏仕様に変わっていることと、冷房が起動していることくらいだろうか。何も変わらないユリウスの部屋。いつもは何とも思わない部屋が、何故だか今日はひどく心地良かった。
──あんたなんて、 のくせに!
最初にスバルがこの部屋を訪れたのは、そんな台詞と共に突然女性から水を掛けられた時だった。
まだ中学生のスバルを、大学生になったばかりのユリウスが、何が楽しいのか週に最低二日は迎えに来ていた頃だ。夕方にも大学の講義があるために週に二回だっただけで、もし講義がなかったら毎日迎えに来ていそうな顔をしていた。中学二年生から思い出したように始まった成長期で、日々成長痛と戦っていた時期だからよく覚えている。「お前は俺の彼氏かよ」と文句を言ったスバルに、ユリウスが口ごもりながら「だが君の成長が……」とよく分からない言い訳を返していたのも確かあの頃だったか。
帰路に就きながら、頭一つ半背の高いユリウスに、「このまま伸び続けて、お前の背なんて抜かしてやるからな!」と噛み付いていた時に、突然それは起こった。
── が、ユリウス様に失礼な口を効かないで!
何の前触れもなく、そんな罵倒と共に後ろから出し抜けに冷たい液体をぶつけられた。何が起こったのか分からないまま振り返れば、そこにいるのは綺麗な女性。初対面だろう女性が、本来は愛らしいだろう大きな瞳をキッと釣り上げ、スバルを睨んでいた。
その後のことは、実はスバルはよく覚えていない。
いや、覚えているには覚えているのだが、ユリウスとその女性が知り合いで、二人が何やら言い争っていたことしか覚えていないのだ。その記憶も不鮮明で、二人の会話の内容はほとんど記憶になく、最初に投げつけられた罵倒も「こんなことを言われたような気がする」というだけで、内容もあまり思い出せない。
ああ、でも、一つだけはよく覚えていることがある。スバルよりも、ユリウスの方がずっと怒っていたこと。それだけは強く印象に残っている。
彼女がかけた液体は何だと問いただし、水だと分かれば、スバルに対して憤りを露わにする女性を宥めるよりも先に叱責し、その後口論してユリウスに非難され落ち込む彼女を慰めることもなく、スバルの家よりも近いこの部屋まで連れてきて服を乾かしてくれた。いつもならば馬鹿が付きそうなほど丁寧に女性に接する彼が、女性に対しあんな風に怒っているのを見たのは、そう短くもない五年という付き合いの中でも、あれが最初で最後だ。
確か、あの時も──。
「随分と落ち着いているね」
回想に耽っていると、探し物をしていたというユリウスが片手に絵本のようなものを持ってリビングに戻ってきた。
「んなわけないに決まってるだろ」
「だが、先程は真っ青な顔をしていた。それに比べれば今は顔色が良い」
「そりゃ……」
お前が、傍にいてくれたから。
そんな恥ずかしい言葉が零れそうになって、スバルはぐっと息を喉に詰まらせる。そうだ、水をかけられた時も、隣にユリウスがいたからパニックにならずに済んだのだ。そして、スバルよりも遥かに怒っている人間がいたから、スバルの怒りは消え萎んでしまった。
「……自分よりも混乱してるやつがいれば、落ち着きもするだろ」
「それは……取り乱してしまったのは、謝罪しよう。ならば、君の現状について説明に入らせてもらおうか」
仕切り直すようにこほんと咳を一つした後、ユリウスはスバルとは反対側の端に座った。目の前にある木製のローテーブルの上に、先程ユリウスが持ってきた本が置かれる。
「まずは、これを読んでほしい」
「学習絵本……よいこのまだらるい? 対象年令六才以上……って、なにこれ」
「読めば、今の君の状態を理解する役に立つ」
この年で絵本なんてと思ったが、ユリウスの金の瞳が至極真剣な眼差しで見つめてきては嫌だとも言えず、渋々絵本に手を伸ばした。ちくちくと強い視線を感じながら、最初から読み進めていく。
絵本なので、読み終わるのにそう時間はかからなかった。
ぺらりぺらりとめくられていく紙に描かれていたのは、『斑類』という生き物のこと。猿から人間に進化する過程で、爬虫類や哺乳類など他の動物の遺伝子を持ったまま進化した生き物がいて、それが斑類と呼ばれる。魂は動物の形をしているが、その人の魂を覗き見るのはマナー違反なのでやめましょう。そのようなことが子供向けの分かりやすいイラスト付きで書かれていた。
「よく分からなかったんだけど、これファンタジーか何かか? にしては設定しか載ってないって変だけどさ」
「ファンタジーではなく現実だ。それは斑類の子ども向けの絵本で、斑類にとっての常識が書かれている。斑類に成りたての君が読んで覚えるべき本でもある」
「……ちょっと待ってくれ、ユリウスが何言ってるのか本当にわかんねえんだけど」
現実? 何を言ってるんだこいつは。
人類は何百年か前にチンパンジーやボノボの祖先と分かれて、そこから今の人類に進化したはずだ。中学の社会でそう習った。実は祖先は鳥だったとか、遥か昔は魚だったとか、そんな話も聞いたことはあるが、スバルの手にある絵本に書かれている内容はそのような次元の話ではなかった。
「……もしかして、俺の頭じゃなくてユリウスの頭がおかしくなったのか……?」
手作りの跡がないか絵本を逆さまにしたり縁をなぞったりして製本の精密さを確かめたが、既製品のような見事な絵本だ。そもそもこの短時間でここまで手の込んだ物は作れないという考えは、現実逃避したい今のスバルの頭の中にはなかった。
「君が疑うのも無理はないが、これが事実だ」
「いやいやいや、動物に人に進化するとかありえないって」
「しかし現に今日スバルは見ただろう、猿の首を持つ人々を。彼らが猿人で、昨日まで君も猿人だった。だが、君の家系のどこかに斑類の者が混ざっていたのだろうね。何かがきっかけで斑類として目覚めたんだ」
ユリウスの話についていけない。言葉の意味を知っているはずなのに、それが頭で理解できない。
「そもそも、人が動物になるとか、そんな話今まで聞いたこともないんだけど」
「それについては書いてあっただろう。猿人の脳は斑類に関する話を一切受け付けない。今までも君の前で私やフェリスは斑類の話をしていたが、君の脳がそれを全て拒絶していただけだ」
「今もかなり拒絶したい気分なんだけど!」
「信じがたくとも、斑類になってしまった今信じるしかない」
「ぐぅ……」
揶揄っているのだと否定できれば良かったのだが、残念ながらユリウスは至って真剣な顔をしていて、スバルの知るユリウスはこんなふざけた冗談を言う人間ではない。
「……今までの言い方だと、ユリウスもこの斑類ってやつなんだよな? この絵本に斑類は種類がたくさんあるって書いてあったけど、お前は何なの」
「私は犬神人だよ。ハイイロオオカミだ」
「お、狼……!」
なんと心踊る単語だろう。
モフリストの憧れモフり対象の一つだが、危険で、そもそも実物と至近距離で接する機会がないため一般人では然う然うモフることの許されない狼。中二頃には他の動物よりも何故か格好良く感じてしまう狼。
「なあ、狼になって!」
気付けば、身を乗り出してユリウスに強請っていた。
「は、君は何を言い出すんだ!?」
「なれないのか? それとも動物形態になったら何か減るのか?」
「そのようなことはないが……」
「だったら良いだろ!」
「……見れば、君も信じてくれるね?」
「信じる信じる!」
スバルの軽い返答に、些か眉間に皺を寄せながら、溜め息を吐くユリウス。
すう、と一つ息を吸い──。
瞬き一つする間に、直前までユリウスが座って場所には大きな狼が鎮座していた。アニメ的に効果音を付けるならぽわんとかぼふんとか、そのあたりだろうか。
スバルは普通の狼に近づいたことはないが、テレビなどで見るものよりも一回り程大きい気がした。座っている今は、人間のユリウスとそう大きさは変わらない。口元から後ろ足までの毛並みは白く、背も灰色というよりも白に近い色をしており、神々しさを感じさせる。両の瞳は黄色で、優しい色の虹彩に丸く黒い瞳孔が浮かんでいた。
「触っても良いか? 良いよな? な? な!」
巨大な肉食の獣を目の前にしていたが、不思議と恐ろしさは抱かなかった。ユリウスだと分かっているからだろうか、それとも狼の姿になっても香ってくるこの心地良い匂いのせいだろうか。
絵本をテーブルの上に置いた後、ソファの上を四つん這いで動き、狼と距離を詰めた。大きな狼の首に手を伸ばすと、柔らかな銀灰色の体毛に指が埋まった。
「お、おおお、すげえ……! もふもふ……!」
その癖になりそうな触り心地に、思わず銀灰の獣を抱きしめていた。
「うおお、これは……やばい……!」
グウ、と腕の中の狼が何やら文句を言っていたが、聞こえないふりをする。
大きな狼の首筋に頬を寄せ、柔らかな毛並みを堪能する。鼻孔から入り込んだ香りは肺を満たすと同時に、突然の出来事でひび割れていたスバルの心にまで染み込んでくる。先程まであんなに心が乱れていたのが嘘のようだ。急に周りが猿に見えるようになって怖くて仕方なかったはずなのに、ユリウスに会い、部屋に連れてこられて柔らかな毛皮をこうして撫でている今は、世界には恐ろしいものなど一つもないのだと思えてしまう。安心感そのものを抱きしめているような心地だ。
ぎゅうぎゅうと上質な毛並みを堪能しながら視線を下ろすと、体と同じ銀灰色の尻尾がバタバタと激しく揺れていた。こういうところ犬とあんまり変わらないんだな、とスバルが考えていると、狼が腕の中で身じろぎをする。隙間が開くと、今度は前足でぎゅうぎゅうとスバルの胸を押して離れようとしてきた。
名残惜しみながら離れると、一秒でも動物姿でいたくないと言わんばかりの速さで狼はユリウスに戻ってしまった。
「……それで、斑類については信じてもらえただろうさ」
「流石に今の見たら信じるに決まってるだろ。触った感触もちゃんとあったし。ところでなんでお前そんな顔赤くなってんの? 毛皮暑かったのか?」
「気にしないでくれ。……ところでスバル、他の斑類にはあのようなことはすべきではないよ。誤解される」
「いくら俺が毛並み職人だからって、得体の知れない相手に抱きつくわけないじゃん。何言ってんだよ」
いちいち注意されずとも、スバルだってそのようなことするわけがない。それとも、ユリウスにはスバルがそんな節操のない男に見えるのだろうか。
「私からしてみれば、君が何を言っているのか分からないのだが……。差し当たり、他の者にしないのならば……まあ、良しとしておこう」
その表情は、グウと唸っていた狼とよく似ていた。
愛し恋しと犬が鳴く 2
もふりしゃす。