猿。猿だ。

 そこそこ都会でそこそこ田舎な地域に住んでいるスバルにとって、猿なんて生き物は動物園の猿山かテレビの四角い画面でしかお目にかからないはずのものだ。それだというのに、スバルの視界には先ほどからずっと猿らしき生命体がたくさん映っている。

 コンクリートでできたブロック塀も、ところどころ小さな割れ目が出来てしまっている歩道も、青から赤へと変わった信号機も、夏の陽の光を浴びて青々と輝く街路樹もいつも通りなのに、スバルの視界にはいつも通りじゃないものが当然のような顔をして跋扈している。

 あっちを見ても猿。こっちを見ても猿。猿顔なんて可愛いものじゃなく、ゴリラやチンパンジーやオラウータン、それ以外にもスバルの知らない猿の頭を持った人間大の二足歩行の生き物が、街のあちこちを歩いている。

 

「俺疲れてるのか? 父ちゃんの言うとおり休めば良かった……」

 

 今朝「昴、今日はどうしたんだ。あんまり調子が悪いなら終業式くらい休むんだぞ」と言ってくれた賢一すら、今日のスバルの目には猿の顔に見えた。天使よりも可愛らしいベアトリスも猿だった。くりくりとした愛くるしいスローロリス顔の妹の頭をいつものように撫でたが、手の皮膚が触れるのはさらふわな髪の毛ではなくふわふわの毛並みであった。

 

「絶対におかしい……。昨日の夜階段から落ちたからか? 確かに着地失敗してちょっと壁に頭打ったけどだからってこれはないだろ。なんで猿。猿の惑星かよ……」

 

 中身のあまり入っていない鞄を胸の前で抱きしめて、ぶつぶつと独り言を呟きながら学校までの道を行く。早足で道を駆けていくのは、何も猿が怖いからだけではない。いや正直なことを言うととても怖いが、それ以上に逃げたいものがある。

 いやらしいのだ、視線が。

 猿のいやらしい視線などスバルには分からないが、道行くスーツを着た猿やスカートを穿いた猿達の視線が、どうしようもなくいやらしい物にしか感じられない。制服の上から、視姦するように裸を覗き見られている気分だ。

 死ぬような目に遭ったことはないが、これが世に言う生存本能というやつだろう。この視線に晒され続けてもロクなことがないと、本能が警鐘を鳴らしていた。

 今からでも家に帰るべきだろうか。しかしもう通学路の半分を過ぎてしまった。このまま高校の保健室に駆け込む方が早い。学校につけばこの視線から解放されるはずだと信じて、歩みを急ぐ。

 

「ねえ、君」

「ひゃ、ひゃいっ」

 

 突然話し掛けられて驚き、声が裏返った。声の主は、今まさにすれ違おうとしていたスーツを着た猿だ。スバルが返事をして振り返ったことに気を良くしたのか、不躾に二の腕を捕まれる。

 首から上が猿なので確証は持てないが、低い声とスバルよりも大きな体格と格好からしておそらく男。そして初対面だ。初対面の相手の腕を突然掴むなど、ロクなやつじゃない。返事をせずに逃げれば良かったと思っても後の祭りで、男は既に強い力でぐいぐいとスバルを引っ張っていた。

 

「顔色が悪いけど、体調が良くないのかな? よければ病院につれていってあげようか」

 

 今のスバルは確かに顔色が悪いだろうし、体調も悪そうに見えるだろう。だが言葉では親切なことを言っていても、手を引っ張っていこうとしている先は路地裏だ。とてもじゃないが、病院へ連れて行ってもらえそうにない。

 

「高校生かな? そんなに具合が悪そうなのに学校に行くのかい。駄目だよ無理をしちゃ」

 

 そんな具合が悪そうな相手に良からぬことをしようとしているのはどこの誰だ。

 そう文句を言いたかったが、中学時代剣道で鍛えた大声はこんな時に限って出てこない。鬼気迫る顔といやらしい目つきをした猿首の男に捕まった恐怖のせいだ。人の神経を逆撫でする己の癖を、スバルは誰よりも理解していた。人間かも知れない存在を変に煽って、何が起こるか分かったものではない。

 どうやって逃げようか。不幸中の幸いなことに右腕は自由だ。殴るのもありだが、筆記用具と携帯電話程度しか入っていないため威力は少々心許ないものの、鞄を勢いよく叩きつけるほうが良いかもしれない。怯ませることはできるだろう。

 これは正当防衛だ。スバルが鞄を抱え直し、男の後頭部に狙いを定めたようとしたそんな時、スバルの右肩が後ろから伸びてきた手にぐっと掴まれた。

 

「はえっ?」

 

 他人に危害を加える覚悟を挫かれて、情けない声がこぼれ落ちる。

 振り返ろうとしたが、それよりも先に手の主が大きく一歩踏み出し、スバルと男の間に割って入った。青年だった。スバルよりも頭半分ほど背の高い青年は、スバルの二の腕を掴んでいた男の手首を軽々と捻りあげる。スーツの男は痛みを訴える悲鳴をあげて、なんだなんだと目を白黒させながら振り返った。青年はスバルを庇うようにこちらに背中を向けているため、男の視界にはほぼ青年しか映っていないだろう。

 

「な、なんだ君は!」

「通りすがっただけの者です。しかし、どうにも後ろの彼が嫌がっているように見えたのでね」

「し、失礼な! 私はただ、その子が具合が悪そうだったから介抱しようと」

「そうか。だが、嫌がっている相手を無理矢理暗がりへ連れて行こうとすることを介抱とは呼ばないと思うが?」

 

 冷静な青年に対し、圧倒的に自分が不利を悟ったのだろう。「俺のせいじゃない!」と言い放つと、踵を返して慌てて住宅街の中に消えていった。

 掴まれていた二の腕が解放されたことにより、滞っていた血流一気に流れ始める。緊張と恐怖から解放されて、足の力が抜けた。情けない。男に言い寄られただけでなく、この青年に庇われて、助けてられるなど。心の中では自分の情けなさに恨み節を吐いているが、体は持ち主の心とは関係なく更に情けなさを増すようにずりずりと地面にへたり込んでしまう。

 

「何故魂現を出しているのかは分からないが、早くしまうべきだ。何か事情があり制御ができないのなら、タクシーを呼ぶから病院へ行ったほうが良い」

 

 逃げる男の背を見送りながら、青年はそのようなことを言ってきた。男の言葉とは違う、真にスバルの身を案じる言葉だ。何故かスバルとは意図的に顔を合わせないように背中を向け続けているが、立ち去ろうとはせずスバルが落ち着くのを待っていてくれている。

 その何も言わない優しさが嬉しい。

 そして、何より--猿じゃない。

 細身だが凛とした佇まいの胴体の上にあるのは、人の顔だった。それも、スバルがよく知った。

 

「お前のそのムカつく面見て安心する日が来るとは思わなかったぜ、ユリウス……」

 

 色素の薄い紫の髪を撫でつけ、見目麗しい顔と優雅な立ち姿を惜しげもなく晒す美丈夫は、スバルの数年来の友人であった。

 いつもは彼を見ると腹の中がムカムカとしたものだが、今日ばかりは話が別だ。異常な視界で唯一まともな物を見つけた安堵のほうが勝る。

 

「……スバル?」

 

 不意を突かれた様子で、ユリウスが振り返る。まじまじとスバルの顔を見つめ、もう一度確かめるようにスバルの名前を呼ぶ。今になって漸くスバルがここにいたことに気付いたかのような顔をしたユリウスを、怪訝な表情で見上げる。

 

「俺だってわかってて助けてくれたんじゃないのかよ。いや、お前なら誰でも助けただろうけどさ」

「私は、斑類の高校生だとしか……待ってくれスバル、君は斑類だったのか?」

「まだらるい? なんだそれ」

 

 スバルの言葉に、ユリウスの顔色が変わる。ざっと青ざめたかと思うと、次は白い頬を紅潮させる。口元を手で抑えて、何かを期待するような黄色い双眸でスバルを見下ろしてきた。今朝これまでの通学路で何度も受けたのと同じような熱の籠もった視線に、スバルの身体が固まる。

 どれだけそうしていただろうか。時間にすればほんの数秒に過ぎないだろう僅かな見つめ合いの後、眉間に皺を寄せてぐっと瞳を閉じ、深呼吸を一つ。ユリウスが次に瞳を開いた時には、先程までの熱はそこから消え失せていた。未だに地面に座り込んだままだったスバルに手を差し出した。有り難くその手を取り立ち上がったところで、握っていた手が解かれ、代わりに手首を掴まれた。

 さっきの男に掴まれていた時のような嫌悪感はないが、絶対に逃がさないという意思が感じられる強い力で捕まれれば当然痛い。文句を言おうと口を開くが、「スバル」と真剣な声音で名を呼ばれ、開いた口を閉じる。

 

「今の君は、周りが動物……猿の姿に見えるのでは?」

 

 自分の幻覚をぴたりと言い当てられて、息を呑む。

 

「やはりそうか……。少し待ってくれ」

 

 目を見開いて驚くスバルの反応に、苦々しそうに、しかしその声に僅かに歓喜の色を混ぜて、ユリウスは小さく息を吐く。右手は変わらずスバルの手首を掴んだまま、器用に左手だけで鞄の中からスマートフォンを取り出すと、操作してどこかへ電話をかけ始めた。暫く待った後、ユリウスの口から「フェリス」とスバルも知る名前が出てくる。

 

「すまないが、今日の講義は休ませてもらう。――ああ、そうだ、全てだ。ラインハルトに、何かあれば後でメールで教えてほしいと伝えてくれないか。――ありがとう。それと、これからスバルと一緒にガリッチ殿のところへ行く」

「は!? おい、俺も学校あるんだけど!」

 

 “ガリッチ殿”というのが誰かは知らないが、何故かユリウスとこの後行動を共にすることになっている。思わず声を上げると、電話中のユリウスが端末を顔から離した。

 

「その状態で学校へ行くと?」

「うぐっ……」

「それに、どうせ明日から夏休みだと言っていただろう。これは終業式よりも大事なことだ」

 

 それを言われるとぐうの音も出ない。スバルが押し黙ったのを目視で確認して、ユリウスはもう一度電話を再開した。

 

「まずは病院だ。……いや、私の家の方が良いか。その後に病院へ行こう。大丈夫だ、私もついていく。――フェリス、聞こえていたか? そうだ、スバルが『先祖返り』になった。――何を言っているんだ、私は期待など…………少ししかしていない。それはスバルが自分の意志で決めることだ」

 

 先程から会話の端々に混ざる知らない単語の意味は理解できないが、これからユリウスのマンションへと行き、その後一緒に病院へ行くのは、ユリウスの中で決定事項となっているようだ。どうやらユリウスはスバルがこうなった原因を知っているようだが、それなら尚更早めに病院へ行った方が良いんじゃないだろうか。

 そんなことを思っているうちに、電話が終わったようだ。スマートフォンが鞄へとしまわれ、美丈夫の甘く涼やかな容貌がスバルへと向けられる。琥珀の双眸がスバルを上から下まで眺められた後、耐え難いような、苦々しそうな、なんとも言えない小さな呻き声が唇から漏れた。学校指定の制服を着ているだけだというのに、何だと言うのだろう。

 

「私の家まで、少し急ごう」

「あ、ちょ、待てって!」

 

 結局手首は離してもらえず、足のコンパスの僅かな違いを妬みながら、スバルは早足のユリウスに引っ張られることとなった。

 こんなにも急いでいるということは、スバルの状況はそれほど危ないものなのだろうか。そんなことを考えて不安になった時、ふわりと花のような甘い香りが前方から漂ってきた。

 ユリウスがつけている香水だろうか。甘く優しいそれは、今まで嗅いだどんな匂いよりも好ましいものだった。

 

 

 

愛し恋しと犬が鳴く 1

 

 

 

趣味に走ったセクピスパロユリスバ。

ちゃんと終わるかなこれ……。