ユリにゃんは猫である。 

 

 

 玄関扉の前を通り抜けて、それなりに高いレンガ模様の柵を見上げた。軽やかに柵の上に飛び乗ると、そのまま朝露に濡れる物干し竿を飛び越えて板の張られたバルコニーへと降り立つ。着地に失敗するような馬鹿な真似はしない。この行為は既に数えきれないほど行われているもので、今更失敗するほど抜けてはいない。 

 ひやりと冷たい板の上を歩き、朝焼けを映すガラス窓に近づいた。白いレースカーテンと橙色のドレープカーテンに閉ざされた向こうにあるのは、この一軒家の一室のリビングだ。ちなみにフローリングである。 

 

(スバル) 

 

 住人の名前を呼び、ガラス窓の桟をぽんと叩く。いつもならここですぐに窓が開くのに、何故か今日は窓が開く気配はない。ついでにいえば窓の向こうに人の気配もない。 

もしかして、まだ寝ているのだろうか。 

 それだったら暫く待たなければいけないな。 

 首が痛くなるほど見上げなければいけない大きな窓を開ける術は、ユリウスにはない。まず鍵がかかっているし、彼にはこの窓は少々重すぎる。 

 どうしようか、少し散歩でもしてこようか。そんなことを考えながら、もう一度「スバル」と名前を呼んでみる。するとガラス窓に人影が映り、呼び声に呼応するかのようにカーテンが開いた。カーテンの向こうからひょこりと顔を覗かせたのは、ユリウスの待ち人だ。時々スバルの両親のどちらかがユリウスを迎えることもあるが、ユリウスがユリウスと名付けられて以来、ほとんどの場合出迎えてくれるのはスバルだった。 

 スバルはクレセントに手をかけて鍵を開けると、がらがらと窓を開けた。 

 

「悪いな、ちょっと寝坊してさ」 

(なんだ、そうだったのか。最近は夜更かしを減らしたと言っていたのに) 

「昨日表紙買いしたラノベが意外と面白くてさ。ま、猫のお前に言ってもラノベとかわかんないか」 

(そんなことはない。君の本棚に並んでいるあの本だろう) 

「お前、にゃーって鳴くタイミングいつもばっちりだけど、もしかして俺の言うことわかってるのか?」 

 

 そう言いながらスバルは、フローリングの上に置かれていた白いタオルを手に取る。にゃー、と肯定の意を込めて鳴くと、「やっぱり返事してるよなあ」と小さく笑った。タオルを持っていない左手でユリウスの足を掴むと僅かに持ち上げ、右手のタオルで足先に付着した泥や汚れを拭い始める。寒い外で暮らす猫を気遣ってか、冷たい水ではなくぬるま湯で塗らされたその柔らかい感触にスバルの優しさを感じる。 

 

「今日はあんまり汚れてないんだな。この間残飯まみれになっていた時はびっくりしたぞほんとに」 

(あれは、カラスと喧嘩しようとする友人を止めようとしたからだ) 

「ユリウスの事だから何か事情があったんだろうけど、洗うの大変なんだからなるべく綺麗なままでいてくれよ?」 

(もちろん、その努力はしているとも) 

 

 そうこうしている間に全ての足が拭き終わる。朝の冷気にぶるりと体を震わせると、スバルが苦笑しながらユリウスの頭を撫でた。 

 

「外はまだ寒いからな。エアコンの下で暖まってるといいぞ。おはよう、ユリウス。今の朝飯の準備してくるからな」 

 

 にゃあ、と猫らしく一鳴きすると、ユリウスは部屋へと一歩足を踏み入れた。 

 

 

 

 ユリウスは世間一般では「野良猫」と呼ばれている。名前ではなく、云わば立場につけられた通称のようなものだ。地域猫と呼ばれることもあるが、ユリウス自身はこの地域に帰属意識を持っているわけではないので、自分を野良猫だと認識していた。 

 人間につけられた名前なら、他にもたくさんある。 

 みゃう、ミケ、タマ、琥珀、こばち、ショコラ、シロにクロ。ちなみに言っておくが、ユリウスは三毛猫ではない。はちわれでもない。白猫でもなければ黒猫でもなく、品種で言うと血統書付きのロシアンブルーである。 

 数え出したらきりがないほどある名前の中で、一番気に入っているのは「ユリウス」という名前だ。頭を撫でてくるスバルに「名前、名前……7月だからユリウスとかどうだ?」と聞かれ、にゃあと答えたときから、ユリウスはユリウスになった。 

 

 スバル、とはユリウスが今いる家の一人息子である菜月昴のことを指す。 

 ユリウスには人間の美醜はわからないが、よく人間に「随分と目つきの悪い猫だねえ」と評されている友人の猫と同じような目つきをしているので、きっと人間基準でも彼は鋭い目をしているのだろう。寝起きでぼさっとしている黒髪は、触るとユリウスの灰色の被毛に勝るとも劣らずふわふわしている。 

 にゃあと呼びかけた鳴き声に返される声も、ユリウスの三角耳が生えた頭や顎を楽しそうに撫でる手も、いつも優しかった。出会った頃の夏毛に比べて、冬毛に生え替わり頬毛がふんわりと増えた今は、頬を触るのも楽しいようだ。毎日のように腋に手を入れて持ち上げられ、頬に頬を押しつけすりすりされている。 

 

 エアコン下の暖かい風が当たる位置に敷かれた、ユリウスのためのタオルの上に座ると、首をぐるりと後ろに回して毛繕いを始める。背中から前足を舐め終わり、腹に移ろうとしたところで、スバルが朝食を持ってきてくれた。 

 

「はい、どーぞ」 

 

 ことりと音を立てて、白皿が床に置かれる。底が丸い白皿に入れられた茶色い粒々が、ユリウスの食事だ。知り合いの猫にはネズミを狩ったり生ゴミを漁ったりして食事を手に入れる者もいるが、ユリウスにはそれらの食事はどうしても口に合わなかった。生まれてから一年以上、この茶色い粒々や似た味のする茶色く柔らかな肉を食べていたせいだろう。幼少期に固定された味覚というのは、どうにも変えられないらしかった。 

 幸いなことに、様々な事情により野良猫となった今も、見た目が整っていることもありユリウスは食いっぱぐれたことはない。猫が好きそうな家庭の庭先に座り、元飼い主の自慢でもあった綺麗な声でにゃあと鳴けば、誰かしらが食事をくれるのだ。 

この菜月家もまた、そうやって手に入れた食事場所の一つだった。 

 

 腰を下ろして食事をするユリウスの姿を、正面にしゃがみこんだスバルが微笑ましそうに見つめてくる。下に向けていた琥珀の目でちらりと見上げると、「食べてて良いぞ」と返されたので、言葉に甘えてはぐはぐと食べ続け、底に残っていた最後の一粒まで食べきった。この茶色い粒々は、スバルが自らの小遣いから捻出している物なのだから、残すわけにはいかない。 

 猫は情報通だ。あちこち行き来している野良猫は特に。故にユリウスは、スバルはここにいるべきでないと知っていた。スバルの年代なら今頃は皆同じような模様になって、時々大きな鐘の音がする“学校”という大きな建物に集会をしにいくはずだが、スバルは昼間はいつでもこの家にいる。表に出しはしないが彼がそのことに罪悪感を抱いており、彼がユリウスを飼い猫にしないのも、その罪悪感が理由であった。もしスバルがユリウスを菜月家に迎えたいと言ってくれたなら、ユリウスは喜んでその申し出を受け入れただろうに。 

 

 

 

 ひょいとバルコニーに降り立ち、いつものようににゃあと窓際で鳴きスバルを呼んだ。 

 しかし窓の向こうに人の気配はない。昨日の今日で、また寝坊しているのだろうか。 

 日向と日陰を行き来しながら寝て待つが、朝日が昇りきって中天にさしかかる頃になっても窓は開けられることがなく。 

 嗚呼今日は朝から出掛けていたのかと考え、それならいつまでも待っていても仕方ないかと少々落胆しながら、夕食をくれる家を探しに、ひょいと塀に上って歩き始めた。 

 

 

 

 次の日も、今までと同じようににゃあと鳴いたが、スバルは出てこなかった。 

 代わりに彼の母親が出てきて、食事をくれた。どこか暗い空気を纏っている彼女が心配で、食事に手も付けずににゃーと声をかけると、スバルと同じような優しい手がユリウスの頭を撫でてくれた。 

 

 

 

 その次の日も、スバルは出てこなかった。 

 代わりに、彼の両親が朝から深刻な顔をしてどこかへ出掛けていった。窓際にいつもの白皿と茶色の粒々は置かれていたが、ひとりで食べる食事は、いつもより美味しくなかった。 

 

 

 

 流石に今日こそは出てくるだろうと、次の日はいつもより早めにスバルの家を訪れた。 

 皿は、昨日食べたときのままだった。待てども待てども、カーテンが開かれることすらなかった。 

 

 

 

 猫が増えれば何かしらの変化があるかと思い、次の日は友人の一匹も連れていった。窓際で二匹してにゃあにゃあ鳴いていると、ドレープカーテンの隙間から白い手が現れ、クレセントを落とした。その手がスバルの物でないことに落胆しながらも、彼女が窓を開けきるのを待つ。 

「ごめんね、昨日ご飯あげてなかったね」 

 現れた彼女は、何日か前に見たときより表情も声も憔悴しているようだった。 

「……あなたも待っているのに、昴ったら本当にどこへ行っちゃったのかしら」 

 何日も姿を見せないと思ったら、スバルはどうやら彼らに何も言わずに遠くへ探検に出てしまったらしい。しゃがみこんだ彼女はユリウス達を二匹まとめて膝の上に抱き上げると、ぎゅうと弱い力で抱きしめてきた。母親をこんなに悲しませるとは酷い親不孝者だ。帰ってきたら、少し気は咎めるが、この白い牙でガブリと手でも噛んで怒りを示してみようかと思う。 

 

 

 

 

 

 

ユリにゃんはただの猫である。