スバルは美しい獣を飼っている。 

 猩々の血のように赤い毛色をした、誰よりもスバルに忠実で誰よりもスバルに従順な、海のように深く青い瞳の獣を。 

 

「ラインハルト」 

 

 名前を呼べば、スバルの少し後ろを歩いていた獣は長い足を使って、たった一歩で距離を詰めてくる。横に並び、指示を待つ猟犬のようにスバルの一挙手一投足を真っ直ぐに見つめてくる視線には未だに慣れず、心構えなしにその視線を向けられると怖じ気づいてしまう。道に落ちていたのを拾われただけにしては忠誠心が大きすぎるのが、この獣の難点だ。 

 

「なんだい、スバル」 

「なにか、声が聞こえないか?」 

「ああ、恐らく向こうの道で商隊が魔獣に襲われているんだろうね。護衛らしき複数人の声も聞こえるから」 

「助けに行かないのか」 

「何故?」 

 

 何故。何故と来たものだ。 

 目の前の青年には、その商隊を助ける力があることをスバルは知っている。何せ、天下の剣聖様だ。ラインハルト・ヴァン・アストレアの名前を告げ、腰に下げている布が巻かれた龍剣をちらつかせれば、そこらのならず者は皆尻尾を巻いて逃げることだろう。彼に刃向かうのは、理性を失った狂人か、実力に自信のある狂人だけで、エルザのような快楽腹裂き魔は例外中の例外だ。 

 スバルが立ち止まれば、青年も自ずと足を止める。問いに対する返事を待っている姿は忠犬と例えて申し分なく、柔らかそうな赤い頭髪から生えた耳と黒いマントの裾からはみ出た尻尾の幻覚が見えてしまう。白い首に着けられた黒い首輪も、幻覚を後押ししてるのだろう。 

 スバルを見つめる青い瞳は煌めいており、そこに己の発言に対する躊躇いや疑問の色は一切ない。 

 

「お前は、剣聖じゃないのか。王国騎士は、国の剣なんだろ」 

「以前にも言ったけれど、それは昔の話だよ。今は君だけの騎士で、君だけの剣だ。スバルが許してくれるなら、君の盾にもなりたいな」 

 

 世界に祝福されたような造形の顔が、ふわりと笑いかけてくる。その笑顔を女性に向けてあげればさぞ喜ぶだろうに、この男はスバル以外に笑いかけることはない。表情が乏しい、という訳ではないのは、エルザと顔を合わせた時に浮かべた怒りを見て知っている。 

 白い首に付けられた黒い皮の首輪に、指を掛ける。力のままに引っ張ると、抵抗もなく端整な顔がスバルの目前まで下りてきた。スバルの騎士となることを望み、「僕がスバルの物だという形ある証明が欲しい」とふざけたことを言ってきた青年に、戯れに、冗談として与えた首輪だ。家畜のようだと嫌がるかと思っていたのに、恭しく受け取ると嬉々として自分から首に取り付けていた。そして「似合うかな」なんて楽しげに聞いてきたのだから、本当に救えない。この青年はスバルには到底理解できないタイプの人種だと、その一件で嫌というほど理解した。 

 突然首輪を引っ張られて痛いだろうに眉一つ顰めない余裕のある表情に、腹の奥がじくじくと痛む。 

 

「どうかした?」 

「……俺は魔女教の人間だ」 

「そうだね」 

「剣聖って言うのは、四百年前に魔女を倒したやつの子孫なんだろ?」 

「正しくは、封印だね。それに、レイド様の子孫だからといって皆が剣聖と呼ばれるわけじゃないよ。剣聖の加護を受け継いだ人間が、剣聖になる。剣聖の加護をもたない今の僕は、剣聖の家系に連なる大勢のうちの一人だよ」 

 

 顔を歪めて、首輪にかけていた指を離す。心なしか残念そうにしながら、ラインハルトは曲げていた腰を元に戻して、スバルの次の言葉を待っていた。 

 きっと、スバルが商隊を助けに行けと言えば瞬きを数回する間に助けて戻ってくるのだろう。助けに行かないのは、スバルに命令されておらず、彼らを助けなくともスバルの不利益にはならないからだ。 

 

「……お前は、それで良いのか」 

「すまない、スバルが何を戸惑っているか分からないんだ。けど、僕がいても悪いようにはならないと思うよ。剣聖の加護以外は変わらず持っているし、剣の腕もそう劣らないものだと約束しよう。君の手足となり、君が命じればなんだってしてみせる。それだけでは不満かな」 

「俺が、王都の人間を全員殺せって言ったら?」 

「スバルがそう望むなら、可能な限り殺してみせるよ」 

「俺が司教様って呼べって言ったら?」 

「少し寂しいけど、君が望むならそう呼ぶよ」 

「望まないから結構。お前にそんな呼び方されたら鳥肌立つ」 

「ありがとう、じゃあこれからもスバルって呼ぶね」 

 

 どれだけ邪険にされようと、ほんの少し構われるだけで喜ぶこの青年が何者なのか、スバルは知らない。 

 その頭抜けた強さや、神仏が百年かけて造形したような美しい顔立ちから、ラインハルト・ヴァン・アストレア本人であることは事実だろう。しかし、この世界にはスバルの騎士を名乗り、忠犬のように付き従うラインハルトの他にもう一人ラインハルト・ヴァン・アストレアがいる。ルグニカ王国の剣聖で、フェルトの騎士で、スバルが八十七回死んでも成し遂げられなかったことを容易くやってのけた男。スバルのことなど欠片も認識していないだろう、炎のように鮮烈な力の化身。 

 異質なのはこちらのラインハルトの方だろう。彼は自分のことを詳しく語らないが、 

『青』の主君であったクルシュ・カルステンの記憶があることは口にしていた。彼女に仕えていたという、彼の祖父の記憶があることも。異世界から来た自分と、異端の騎士。あまり認めたくないが、異質な者同士お似合いの組み合わせだ。 

 

「エミリアが王になるには邪魔だから、フェルトを始末してくれって言ったら?」 

「それは……、フェルト様を他の国に逃がすことで妥協してもらえないかな。フェルト様もロム殿と一緒なら、王位に就くよりもカララギで穏やかに暮らすことを望むかもしれないし」 

「……ま、そこでできるって言われる方が信用できないか。俺もフェルトやロム爺には何回か助けられたことあるから、別に死んでほしいわけじゃないし。あー……じゃあ、俺のことを殺してくれって言ったら?」 

 

 言った瞬間後悔した。今の問いかけは、このラインハルトにとっての地雷だ。すっと青い目が細められ、言葉の真意を見定めるようにスバルの目を見つめてくる。 

 青い瞳に映るのは殺意ではない。怒りでもない。疑問と戸惑い、そして哀しみだ。スバルの言葉に深い意味などなかったのだと察すると、ラインハルトは目を伏せて首を横に振った。 

 

「それだけは、絶対に聞けない。代わりに、君が死を望んでしまった原因の全てを取り除くよ。……スバルは、死にたいと思うことがあるのかい」 

「人生どん詰まりなわけでもないのに、自分から進んで死にたがる人間がどこにいるよ」 

「……そうだね、普通は、そうなんだ」 

 

 スバルを真正面から見下ろす翳る青い瞳が、スバルを通して別のどこかを見ていた。「だったら、どうして君は」吐息に混じるように小さく呟かれた疑問は、スバルに向けたものではない。空中に消えた言葉に溶けていたのは、誰への想いなのだろう。 

 彼らしくない憂いた表情を浮かべていたが、目を瞑り、小さく息を吐いた後再び眼が開かれたときには、いつも通りの穏やかで清廉潔白を表した好青年に戻っていた。 

 

「あの商隊を助けなくても、スバルは死なない。僕の望みは、スバルが生きていてくれることだ。君が生きて笑っているなら、それで良いよ。スバルが泣かなくてもいい世界なら、もっと良い」 

「天下の剣聖様の言葉とは思えねえな」 

「今の僕は君だけの騎士だよ。剣聖の加護も持っていないしね」 

「お前はそれで良いのかよ」 

「良いよ。君の傍にいられるだけで十分だ。君の傍で、君のすべてを理解させてほしい。君が何を見てどう感じるか、誰にどんな感情を抱き、どんな料理が好きで、どんな料理が嫌いか。好きな季節や嫌いな言葉、苦手な天気や得意なこと、趣味や家族のことも全部教えてほしい。僕はスバルのすべてが知りたいんだ」 

 

 愛の告白でもされたのかと思った。スバルは自分の愛情が結構重たくて引かれることは幼稚園時代に初恋の保育士さんの反応で自覚済みだが、この青年の重たさも恐らく相当のものだ。 

 気怖じしながら「す、好きにすれば」と伝えると、ラインハルトは喜びを露わに頬を緩ませた。何故彼がこうもスバルに拘るのかは知らないが、大変な猛獣を拾ってしまったのだと今更気付いても、情が移り始めてしまった今ではもう捨てる選択肢は取れない。

 

 

 

百億光年よりも遠くから

 

 

 

黒騎士×傲慢ライスバ。

あるいはカサネルラ×アヤマツス。